「 『薬害エイズ松村判決』でわかった日本の官僚はプロの『責任』を放棄している! 」
『SAPIO』 2001年12月19日号
「官僚の不作為」を初めて認定した判決は出たが…
9月28日、東京地方裁判所の永井俊雄裁判長は、薬害エイズ事件において、元厚生省課長松村明仁被告に対し、エイズウイルス(HIV)が混入しているおそれのある非加熱濃縮血液製剤について適切な処置を取らなかったと、官僚の不作為を問い、禁固1年執行猶予2年の有罪判決を言い渡した。薬害エイズ事件に関して当初より取材を精力的に続けているジャーナリストの櫻井よしこ氏が、薬害エイズ被害者の救済事業を行なっている、はばたき福祉事業団の理事長、大平勝美氏、旧大蔵省出身で、政策立案シンクタンク「構想日本」の加藤秀樹氏、東京HIV訴訟弁護団の清水勉氏らと今回の裁判を通して司法、政治、官僚のあり方を問い直した。
櫻井: 松村判決は、官僚個人の不作為責任、つまり危険性を知りながら有効な手だてを打たなかった役人を初めて有罪にしたとして、新聞報道などでは画期的な判決だと評価されています。しかし判決文を読むと、非常におかしな点が多々ありますね。
清水: 民事裁判を通して事件の全容を知っている私たち弁護団から見ると、どうせなら無罪にしてくれたほうがわかりやすいと言いたいくらい、非常に中途半端な判決です。大阪地裁のミドリ十字裁判の有罪判決との辻褄合わせのようで、この判決の書き方からすれば、全部無罪にしていいんじゃないかと思う。
櫻井: 判決の基準は、加熱濃縮血液製剤がいつ承認されたかです。85年7月に加熱濃縮第8因子製剤、12月に第9因子製剤がそれぞれ承認されました。承認前は非加熱濃縮血液製剤に対する危険の認識は低くて当然だから、その段階では責任を負わなくてもいい、承認後は危険性をわかっていたはずだから責任があるというのが裁判所の論理です。しかしこの承認は、その前年、日本のHIV感染者は血友病患者に限られているという鳥取大の栗村敬教授の研究発表を受けて、厚生官僚がひどく急がせて行なわせたもので、このとき松村氏が一番心配したのは、マスコミが取材に来るか否かということでした。
清水: 血友病患者のうち50人ほどを調べたところ、半数近くがHIV抗体陽性だったことが2度にわたって報告された。それをきっかけにマスコミが取材に来るらしいと、松村氏が急に動きだしたらしいですね。元官僚の加藤さんに伺いたいのですが、役人というのはそういう動き方をするものなのですか。
加藤: しますね。官僚が何かをしようとするときには、国民や消費者、この場合でいえば患者というものも当然認識していると思いますが、それと同時に業界があり、その背後に政治家を含めた関係者がいて、さらにもう一つの要素としてマスコミがある。
マスコミは非常に大きい。それには判然とはわけにくい二つの理由がある。保身と、ある種の責任感です。極力世の中で話題にならず、何事もないように仕切っていきたい。同時に社会に不安感を与えたり、秩序が乱れたりしないようにするのが自分たちの仕事であるという義務感がある。だから、マスコミ経由で大きなインパクトを与えるようなことはなんとしてでも避けたいという意識が強い。
大平: 私は血友病患者の会の役員をしていましたが、82年、83年頃には米国の情報がマスコミからも日本に相当入っていたと思います。そしてエイズという難病が、血液製剤から日本の血友病患者に伝播するのではないかというショッキングな情報が、83年の3月から5月にかけて続けざまに出てきました。
櫻井: だからこそ、当時の郡司篤晃・生物製剤課長(松村被告の前任者)は83年6月にエイズ研究班を立ち上げたわけですね。
大平: ですから83年には、その危険性を血友病の専門医や厚生省の生物製剤課も十分把握したはずです。ところが、それから85年7月、12月に加熱濃縮血液製剤が認可されるまでの丸2年以上の間、患者は放っておかれた。エイズは性感染の問題で、被害は家族全体に及んでいくんだと口酸っぱく血友病専門医や行政に言ってきたわけですが、それが全く無視されたのが、患者としては一番情けないんです。血友病患者は不安に怯えていたわけですが、患者が何人か死ぬまで対応が全くとられなかった。
櫻井: 83年3月に米国で加熱濃縮血液製剤が承認されて、米国のトラベノール社は十分に加熱濃縮血液製剤を供給できる体制に入り始めていた。ところが日本は一番開発が遅れていたミドリ十字を待つ形で、85年7月にようやく全社一斉に加熱濃縮血液製剤を承認する。ミドリ十字はシェアが50%の最大手で、当時は社長、専務、東京支社長が全員、厚生官僚の天下りでした。その癒着ぶりは、ミドリ十字が厚生省薬務局分室と耶喩されるほどでした。
官僚の使命感の
7割は業界に向いている
清水: この判決にしろ安部判決にしろ、「官僚や専門医は善である」という前提になっているのが根本的な問題です。判決文には血友病専門医はウイルス学者の研究を踏まえて治療に専念したと書いてあるけれども、彼らは患者に内緒で感染者探しの為の血液検査をしていただけで、感染告知もしなければ治療もしない。治療は96年に薬害エイズ裁判の和解が成立し、和解条項の中で我々が医療体制をつくれと言ったところから、ようやくスタートしたんです。彼らがやっていたのは沈黙による皆殺しです。
それに、非加熱濃縮血液製剤を打たれてエイズに感染して死んでしまった被害者の2人の男性のことが、ほとんど判決文に出てこない。
櫻井: ウイルス学的な解明がされない限り、危ないと思われる薬をずっと打たせてもいいというのがこの判決です。原因がわかった後では遅すぎるということを裁判所は認識しなければいけないのに、そこが完全に欠落している。
加藤: まさにそれは、裁判官の不作為ですよ。本件あるいは環境問題などでは100%因果関係が明確になることはあり得ない。そこまでいかない限り無罪というのは、現代における様々なリスク、あるいは社会のスピードを考えると裁判官がやるべきことをやっていないということです。
清水: もう一つ、非加熱濃縮血液製剤が売られ続けたのはお金の問題も大きいのに、松村判決にも安部判決にもこの問題が全然出てこない。
櫻井: 血友病の治療は大変お金のかかるもので、私が取材した患者さんは薬代だけで1日4万5000円でした。米国やヨーロッパで非加熱濃縮血液製剤が危険だということで使われなくなったため、米国の在庫が全部日本に送られてきた。その在庫を捌(さば)くために、メーカーが安売りをして定価の4割ぐらいで病院に入れる。保険適用で薬価基準の薬価を全額もらえますから、6割が病院の儲けになる。お金は見過ごすことのできない大きな要素だったと思います。
加藤: 法律家の傾向として、そういう要素を極力排除しようというのは一般的にありますね。個人的な感情やお金のことは夾雑物(きょうざつぶつ)としてむしろ意図的に排除する。その点は、裁判官も検察も役所の人間もだいたい似ています。
ただ、私は癒着よりも、彼らの使命感、責任感がどこに向いているかが問題だと思う。消費者は多数だけれども何も言わない人たち。業界は毎日のように何かを言ってくる人たちです。その中には役所のOBなどが大勢いるので、圧力としては当然こちらのほうが大きい。それに日本の戦後行政は、業界をいかに育てるかが国力を高め、ひいては国民の経済的利益を高めるという意味での使命だったという歴史的な経緯もある。
その結果、彼らの使命感の7、8割は業界に向いていて、そのうち1割か2割が癒着の部分。残りの2、3割が消費者を守ることに向いている。マスコミは癒着の部分を取り上げるのが好きですが、それだけでは本当の部分が見えなくなる。
スペシャリストと
プロフェッショナルの違い
清水: しかし、この判決にあるように、危険だということが確実になるまでは何もやらなくていいとすれば、国民の側からすれば役人を置いておく意味がない。
大平: 役人が医者に全部頼りきっているというか、自分で判断しないし、責任を負わない。私たちが厚生省に再三要望していたのは、医者には解決できない問題だからきちっと国が方針を示してほしいというのが一番大きな原点でした。
櫻井: 行政官は、自分たちの責任逃れのために審議委員会や諮問委員会などをつくるのです。郡司さんは国会で、自分たちは研究班をつくって専門家の意見を聞き、専門家が非加熱濃縮血液製剤で行くと決めたのでそれに従いました、と言いました。行政官は専門家ではなくて素人です、だから責任がない、と。
加藤: 専門家の意味をちゃんと定義しなければいけなかった。スペシャリストとプロフェッショナルとは違うと思うんです。行政のプロは、特定の病気のスペシャリストであるはずはないし、なくていい。行政のプロというのは、みんなが自分の都合を勝手に言ってくる中で、優先順位をつけながらどう判断するかということです。それに、権限と責任とは常に絶対にセットでなければいけない。官僚が権限を行使するのなら、責任は知りませんとは絶対に言えないんです。裁判官であれば、そんなことは法律以前のルールの問題として心得ておくべきだと思う。
大平: 患者としては、血液製剤を認可する役人が責任を問われた形で有罪判決が下されたという点において、今回の判決は一応は評価するんです。もちろん認められない部分も多いですが。
でも、スピード感がないんですよ、全然。判決の中でも着実にやっていましたと言いますが、加熱製剤への切りかえに2年数ヵ月もかかったのは、疫学的な問題としても遅過ぎると思う。
加藤: でも、役所というのはいざとなれば早いんです。明日の朝までというようなことでしょっちゅう徹夜しているわけですから。それは優先順位のつけ方で、つまり非常に大事だと思いながら結果的に遅くなったのではなく、最初から大事だとは思っていなかったということのあらわれではないですか。
清水: 85年8月のワイン回収のエピソードが典型的ですね。
櫻井: ワインに有毒の不凍液が混入しているかもしれないということで、すぐに全品回収したんですよね、役所が。
大平: 私たちが本当に驚いたのは、すごくスピーディーに新聞広告を出し、酒屋さんの店頭など該当するワインを回収した。それが何で医薬品ではできないのかということで、85年8月に私たちは出回っている非加熱濃縮血液製剤の回収を求めて松村課長に会いに行った。
当時は仲間からかなり感染者が出ていたし、亡くなった方の報道が次々に出始めていた。ところが、そのときに松村課長は「ワインの問題については一般国民の問題だから」と。じゃあ、私たち血友病患者は国民じゃないのかということで、行った患者が激怒したわけです。
櫻井: 松村元課長については、実は私も強烈なイメージがあるんです。厚生省が96年になぜ薬害エイズを生んだのかというプロジェクトチームを省内でつくり、83年、84年当時にどういう考え方でいたかを百数十人にアンケート調査したのです。ほとんどの人が「記憶がない」などと書いてくる中で、松村さんの回答書だけが異様だった。質問に対して全て新聞の切り抜きや学者の論文のコピーを張って答えていました。自分の言葉で書いたものが何にもなかった。
その松村さんが、裁判に入るとものすごく能弁になりました。自分の立場を擁護するために何十時間も自分の言葉で自分を弁護した。自分の保身についてはすごく熱心だけれども、患者さんに対する思いとか感情というものがほとんどない人なのだろうと感じてしまいました。
政治家の責任は
どこまで追及できるか
加藤: 官僚を弁護するつもりはありませんが、突き詰めると政治の問題だと思います。法律の中における権限の主語というのは、ほぼ常に大臣です。「財務省は」ではなくて、財務大臣は何々することができる、しなければならないとなっている。誰だってそうですが官僚は組織人ですから保身も図るし、何かまずいと思ったら、自分でやるか上司に相談する。そうやって上に上げていくと、行き着く先は大臣なんです。日本では政治家がやるべきことの多くを官僚がやってはいますが、政治家の不作為はなぜ追及されないのか。
櫻井: どちらもどちらだという感じがします。確かに大臣のあり方は大「に問題ですが、役人自身にも大きな問題がある。
厚生省を見ていると、63年のサリドマイドの提訴以来、38年間、一貫して薬害訴訟の被告の座にいるわけです。サリドマイドでもスモンでも、「自分たちに責任はありません」と言って最後まで裁判を続け、責任を否定し続けて最終的に謝る。この繰り返しです。
清水: 薬害エイズの民事裁判で、国側の答弁を読んでいて、絶対にまた薬害を起こすと思いました。あらゆる形で自分たちを正当化する。こんな考え方では、必ず新たな薬害が起こると思っていたら、案の定裁判中にソリブジンの問題が出てきた。
櫻井: 薬害ヤコブもそうですね。その役人に対して、松村判決が与えるインパクトはどれくらいあるのか。不作為の罪を認めたということは、今後、役人は自分の仕事に責任を持つようになるのかどうか。実際に役人の立場に立ってみると、どうなのでしょう。
加藤: これが決定的になるかどうかというと、疑問ですね。僕が、例えばこの松村課長と同じ立場になっていたとしたら、全く自信がないですね。官僚の仕事というのは、ほとんど日常業務でふさがってしまう。そのうちかなりの部分が、国会の想定問答をつくったり、関係業界の人の話を聞いたりというやり取りです。人間の判断は日々の仕事の中で行なわれる。日々の状況や情報の多い方が判断に大きい影響をもつ。だから仕事の仕方を変えるところまでいかなければならない。
大平: ただ、一つの警告としての影響はあるような気はします。被害者や患者にとっては、官僚が国の対応の窓口なわけですから、こちら側の要求に全く耳をふさぐようなことがあると、最終的に責任を問われるような機会は多くなると思う。
加藤: 情報公開にしても行政のやり方にしても、ここ数年で随分変わってきていますし、若い官僚を中心に意識も変わっています。しかし、やはり政治家が変わらないと官僚の暮らしぶりを変えるところにまでは行かない。
櫻井: 政治家の責任が大きいのは確かです。薬害エイズ事件で、フランスでは血液センター所長が有罪になり、大臣も起訴された。政治家の責任追及までいったわけです。ところが日本では大臣どころか薬務局長にも行かず、課長で終わっています。
清水: 松村裁判でも、大臣を告訴するという議論もあったんです。しかし刑事問題の場合、過失の基礎となる事実認識がないと過失が設定しにくい。それで課長と局長を告訴し、検察の段階で松村氏のところで止まらざるを得なかった。
加藤: 日本の訴訟自体が非常に狭く狭く解釈して、そこの因果関係だけを問いますよね。どうせなら、最初から無罪覚悟で、大臣も局長も相手にして彼らの行政上の不作為をターゲットにするような、象徴的な裁判をやってもいいと思います。結果よりも、そういうことが裁判の対象になるということ自体が、官僚にとってはかなり衝撃的なことだと僕は思いますね。
櫻井: 制度そのもの、根本の制度を問うということですね。たしかにそうでもしなければ、官僚は変わらないでしょう。