「 誇大報告・水増し“南京事件”の証拠の信憑性は非常に乏しい 」
『週刊ダイヤモンド』 2001年12月8日号
オピニオン縦横無尽 第424回
再び南京事件について。私が南京での日本軍による民間人虐殺があったと考えていた理由のひとつが、紅卍会(こうまんじかい)および崇善堂(すうぜんどう)による遺体埋葬数だった。前者は4万3000体を、後者は11万体強を埋葬したと報告、これが、東京裁判で南京大虐殺を事実として認める根拠ともなった。
北村稔氏の『「南京事件」の探究』によると、紅卍会は1922年設立の新興宗教団体で日本の大本教とも提携した慈善団体で満鉄特務班への紅卍会の報告では、埋葬数は南京城内で1793体、城外で2万9998体だった。
しかし戦後、城外での数が3万5097人と報告され、5099人分増えていた。東京裁判に出廷した紅卍会の許伝音は、「埋葬当時は日本軍の圧迫で公表できなかった」と証言したが、北村氏は紅卍会と日本軍は「近しい関係」にあったと指摘し、当時の満鉄上海事務所南京特務班報告などには、同会が自治委員会や日本側とも協力したと記されていることから「日本軍が紅卍会に圧力をかけた事実はない」と判じている。つまり、紅卍会の報告は水増しされていたというのだ。
さらに驚いたのは、崇善堂である。崇善堂も慈善団体で1938年1月から3月までに7549体を、4月にはその14倍の10万4718体を埋葬したと報告した。
北村氏は1月から3月までの合計が7千500余体であるのに、4月に10万4700余体に急増したのはなぜかと考え、調べた。埋葬に従事したのは四部隊で変化はない。埋葬場所は「城根」(城壁の際)「付近の荒れ地や菜園」などと記されすべて、地名が特定できないことも突きとめた。
崇善堂の主張は根拠を欠くのではという疑問が出され、中華人民共和国政府が対抗して出した資料がある。資料は、崇善堂がクルマを一台所有していたこと、そのクルマは1924年製造の古いクルマでバッテリー、ピストン肖(銷)子、クラッチが故障していたことを記している。
中国側が、崇善堂は実在し、しかも活動していたと示すために出した資料によって、皮肉にも崇善堂の規模の零細さが浮彫りにされたのだ。古い故障車一台で、四グループの少人数で38年4月のひと月間で10万を超える遺体を埋葬したとの報告の信憑性(しんぴょうせい)はにわかに怪しくなった。
北村氏の著書を読んだのと同じ時期、阿羅健一氏の『聞き書 南京事件』(図書出版社)を読んだ。南京攻略当時、南京に行った軍人、報道マンらの証言を集めたもので、貴重な第一次資料である。そのなかに上海派遣軍参謀として南京入りし、38年2月以降は南京特務機関長として南京にとどまった大西一氏の証言がある。37年、38年当時の南京事情を最もよく知る人物だ。
大西氏は阿羅氏の崇善堂についての問いに「当時、全然名前を聞いたことはなかったし、知らなかった」と答えている。「それが戦後、東京裁判で、すごい活動をしたと言っている。当時は全然知らない」と述べている。南京事件を知ったのは戦後とも答えている。
上の著書は87年の出版で取材は10数年前だ。崇善堂を特に意識した取材ではない。大西氏は単に南京での日本軍の責任者のひとりとして、崇善堂についてまったく知らないというのだ。
今年になって学者の北村氏が調査し公表した結果と、10数年前の元軍人の証言がぴったり一致したのだ。崇善堂の報告は疑わざるをえない。
大西氏は、朝日新聞の本多勝一記者の事実と異なる中国での日本軍の報告に立腹し、本多氏を詰問したという。自分こそが真実を書くべきだと考えたが、身内から反対されてやめたそうだ。ちなみに阿羅氏の著書は、小学館から『南京事件 日本人48人の証言』として12月に再出版の予定である。