「 ハンセン病判決は『行政過保護』だった日本の司法に地殻変動を起こす 行政へのクレームができず国民が泣き寝入りしてきた事態をもっと我々は知らなければならない 」
『SAPIO』 2001年7月25日号
司法改革が日本を変える 特別対談(後編)最終答申を撃つ!
6月12日、戦後最大の改革となる司法制度改革審議会の最終答申が小泉首相に提出された。今後は内閣に司法制度改革推進室が設置され、順次法案を国会に提出、3年以内の成立を目指す。しかしその中身は法曹人口の増大、法科大学院の創設、裁判員制度導入など抜本的で多岐にわたるため、いまだ多くの問題が山積している。前回に引き続き、審議会のメンバーで元日弁連会長の中坊公平氏とジャーナリストの櫻井よしこ氏が司法改革の意義と日本社会へのインパクトについて論じた。
櫻井: 前回は、主に司法制度改革審議会の最終答申についてお話を伺いました。今回は、もっと大きな流れ、価値観の変化について伺います。
前回の対談でも少し触れましたが、例えば大阪教育大学付属池田小学校の児童殺傷事件の宅間守容疑者は、後になって刑事責任を免れるために精神障害者を装っていたと供述しましたが、従来のマスコミ報道なら事件当初は名前も顔も報道されなかっただろうと思います。ところが新聞各紙は翌日から、一部のテレビは初日から実名報道になりました。
またハンセン病訴訟についても、小泉首相が控訴を断念し、衆参両議院で謝罪決議を出しました。この予想外のスピードを見ると、何か流れが変わってきているのかなと思うのです。中坊さんはどうお考えになりますか。
中坊: ありとあらゆる病の根源的な原因のようなものが、いろいろな形で現われ始め、それが司法の世界にも出てきていると思いますね。ただ、その前提としてお話ししておきたいのは、私は民主社会そのものが一つの大変な問題性・限界をはらんでいると思うんです。だからこそ司法制度改革審議会も多数決によらずに全員一致でやりました。民主社会はすなわち多数決で物事を決めますが、多数決で常に正しい結論を出しますか? むしろ右に揺れたり左に揺れたり、熱狂と暴走を繰り返すもので、だからこそフランス革命が起きても結局はナポレオンの独裁に終わり、ワイマール憲法のようなしかるべき制度があってもヒトラーが生まれるのです。
櫻井: 大衆の支持不支持のぶれへの危惧はあります。司法改革についても、私は最初、参審制度に対しては態度を留保していました。今の小泉内閣の人気ぶり、田中真紀子さんへのものすごい支持。田中批判への抗議のファックスや電話に表われている世論の熱情を見ていると、一般人参加の裁判で本当に正しい結論が出せるのかという一抹の不安があったからです。
しかし薬害エイズの安部英被告に対して専門家である裁判官があまりにも不合理な偏った無罪という判決を出したのを見て、やはり国民の参加が必要だという思いに至りました。普通の人々の常識をもっと司法に取り込まなければならないと考えましたし、また、普通の人たちがきちんとした判断を下せると信じなければ、デモクラシーは機能しないと思うのです。
中坊: 司法というのはまさに、民主社会が熱狂し、暴走しようとするときに道理を説き、社会に冷静な判断を求める役割を果たすものです。そのために立法・行政から独立し、それらに左右されずに正しい判断を下す。米国の陪審制度にもいろいろ批判があります。しかし同時に、あれほど問題点がありながら、なぜ米国に限らずイギリスでも陪審制が今日まで維持されているのか。そのもとにあるのは、我々国民が主権者であり、司法は我々国民のものなのだという意識です。
櫻井: 国民こそが主権者であるという意識を育てる仕組みが、日本には欠けているのです。行政府に対するチェック機能も、司法に対するチェック機能も、国民の手にはなきに等しいのが実情です。立法府には辛うじて選挙を通して意思を反映させていくことが出来ますが、日本は国民の主権者意識を育てることを余りにもしてきませんでした。
中坊: 結局はお上依存意識というものが根底にあって、すべてがお上の理論によって構築されてきた。国民一人一人が自分の足で立ち、自分で律するという「自立と自律」がきちんと果たせていない。これが最初に言ったあらゆる問題の根本です。つまり構造的な問題点は、国民一人一人の意識の中にあるのです。陪審制や裁判員制度は国民の「自立と自律」を育てる制度でもあるのです。
ハンセン病の問題でもそうですが、たしかに熱狂がなければ動かないけれども、それ自体はやはり熱しやすく冷めやすい。それは前回もお話しした観客民主主義で、観客として見ているにすぎません。だから内閣の支持率が90%になったりするわけです。ハンセン病にしても薬害エイズにしても、あるいは池田小の事件にしても、それらみんながバラバラに存在しているのではない。その根本的な問題は何かを冷静に判断する必要があると思います。
「司法消極主義」に変化は起きているか
櫻井: 国民のメンタリティーの問題だということですが、具体的に、司法における根本的な問題は何だと考えますか。
中坊: 日本の司法がこれほど歪んだ原因を根本的に遡ると、裁判官には戦後の追放がなかったというところに行き着きます。政治家も検事も、財界人ですら追放処分を受けたのに、裁判官は誰一人も追放処分を受けなかった。価値判断の基準が根本的に変わり、法律が全部変わっているにもかかわらず、一人も追放せずに戦後一貫してやってきた。それが最高裁は一番偉いという、司法におけるお上意識の根源になっている。だから、僕らの時代にへまをしたら、次の世代が困るんですよ。
櫻井: つまり、今、お上意識を抜け出して、自立と自律を達成しないと、日本は次の世代になっても変われないということですね。
中坊: 私が関わった豊島(香川県)の廃棄物の不法投棄問題でも同じなのです。自分の目の前からやっかいなものが消えればいい、都会から廃棄物が消えればいいという意識があって、その結果、豊島のような1500人しか住んでいない小さな島に、日本最大の50万トンもの廃棄物が残る。国民もきちんと監視せずに、一過性で騒ぐだけで、しばらくたったら忘れてしまう。これではいけません。
櫻井: しかし、ようやくというべきでしょうが、歓迎すべき司法の変化も表われ始めているように感じます。ハンセン病訴訟で、熊本地裁が国と行政の不作為責任を認める判決を出しました。これは司法の価値判断が変わりつつあることを示しています。大きな流れが起こってきていると思うのです。あるいはこの判決は熊本地方裁判所だから出せたのであって、例えばほかの裁判所だったら違う判断が出ていたのかもしれません。法律と感受性を同じレベルで論ずることは出来ないでしょうが、法律も人間が解釈するものであるなら、人間としての判事の感受性が変わりつつあるのでしょうか。
中坊: 基本的には、私はやはり変わりつつあると思いますね。行政はもちろんのこと、国会が立法措置を講じなかった「立法の不作為」を違法だと判断することは、従来の司法にはなかった雰囲気です。これまでは司法消極主義といって、司法は本来、立法、行政をチェックする機能を持っているにもかかわらず、その機能を十分に果たそうとはしない。彼らの自由裁量というか、裁量行為に立ち入ろうとしないわけです。立法していることに対してすら間違いだということを遠慮するのに、いわんや不作為、つまりしないことが違法だというのは、これまでは考えられなかった。
櫻井: 国政選挙の一票の格差などはその典型ですね。最高裁は何度も有権者の訴えを退け、政治にもの申すことを避けてきました。
中坊: その通りですわ。一票の格差があれほど問題になり、日本の政治の根本に関わることでありながら、なおかつ違憲ではないと言い切るぐらいの司法の消極姿勢が、最高裁以下、徹底している。それからすると、今度の熊本地裁の判決は非常に画期的だと思うし、正しい司法の在り方ではないかと思います。
そもそも司法は、国会はおろか行政の不作為という判断を下すためには、ものすごく厳しい要件を課していますからね。
櫻井: 具体的にいうと?
中坊: 1987年に水俣病患者がチッソと国を相手に起こした訴訟の判決で、熊本地裁は行政の責任を認めましたが、判決理由の中で、行政の不作為を認めるための物差しを示した。それが非常に厳しいのです。1つには、生命や身体に重大な被害が発生していること。2つ目には行政がやれば容易にできることであり、逆に行政がやらない限り救えないこと。さらに、行政に対して被害者がそれを求めていたこと。今度のハンセン病訴訟でもそうですが、被害者がその以前に行動を起こしていなければいけないというんです。
行政の不作為を違法だと断定するには、かように厳しい条件を課す。なぜそこまで行政を守ってやらなければいけないのかと思うくらい、日本の裁判所は行政判断を覆すことに対して消極的なんです。そういう雰囲気の中で行政が野放しになっていた。
行政訴訟の多くはいまだに門前払い
櫻井: 行政訴訟は、本当に一般の国民には起こすにしても、争うにしても厳しい。非常に難しいですね。
中坊: 難しい。当事者適格のところから、ものすごく限定していますからね。行政規則は一般の消費者とか国民のためにあるんじゃない。国民は規制によって、反射的な利益を受けているにすぎないと言うんです。
櫻井: 反射的利益ですか。つまり、私たちは行政がいいことをしてくれた、その照り返しを受けているだけなのだと。
中坊: そうです。照り返しを受けているだけで、ほんまの利益をもっているんじゃないと。昭和50年代にジュース表示事件というのがあって、果汁がまったく入っていないジュースは、無果汁だと書くべきだと主婦連が訴え出た。まず公正取引委員会で却下され、東京高裁、最高裁で訴えを退ける判決が出ましたが、その判例がいまだに変わっていないんです。行政訴訟はほとんどが本論まで入れずに、門前払いされているのが実態です。
櫻井: そんな状態が、もう何十年もの間まかり通ってきたわけですね。
中坊: ええ。例えば私鉄運賃の値上げが高すぎるとか、電気料金が高すぎると思っても、櫻井さんといえども、行政に対して裁判は起こせないんですよ。
櫻井: なぜですか。
中坊: 今の反射的利益論で、争えないんです。鉄道に乗ってる人や電気やガスを使っている人は、行政が決めた間接的利益を受けているだけで、直接の利益はないとされているからです。
78年の秋に、大阪の私鉄運賃の値上げがあったんです。その私鉄は駅を遠くのほうにやって土地でえらく儲けているのに、運賃を値上げすると。それはおかしいんじゃないかと思って、私、申し込んで運輸審議会の口述人になりました。ところがそこに最高裁の判決の「反射的利益論」を持ち出してくるんです。私が何か質問させてくれと言ったら、審議会の委員長が、ひと言「ダメです」と。5回くらいダメですと言われましたかね。ホンマに虫けら同然に。今から20何年前ですが、本当に悔しかったのを覚えています。
櫻井: 言われたような状態だとすれば、この国は国民国家とは言えませんね。
中坊: 前回、私は2割司法の話をしましたが、残りの8割がどう解決されているかというと、一番多いのが「泣き寝入り」、あとは「暴力」、「ゴネ得」、「行政指導」です。泣き寝入りの中でも、今言ったように、国民は無意識のうちに泣き寝入りさせられているんですよ。
櫻井: 行政に対してもの申すには、基本的な法律として情報公開法もできました。行政手続法もありますが、これは利用する人がすごく少ない。また日本の情報公開法は各国のものに比べるととても不備ですね。加えて、民事訴訟法の文書提出命令に関する法律は恥ずかしい内容で、これでは、行政の持っている情報はまったく出されはオないということです。行政訴訟は形の上では可能ですが、実感としてはまだすごく難しい。
中坊: 国民のために、ということではないですからね。最近、やっとNPO法ができたからまだいいですけど。
櫻井: NPO法案にしても穴だらけで、NPOに寄付金がいかないようになっています。これでは本物とは言えません。
中坊: それでも、まだゼロでないだけマシでね。僕は米国のケネディ大統領は大したもんやと思うんですけど、日本に消費者保護法ができたのが1968年ですが、その6年前にケネディさんは「消費者利益に関する特別教書」というのを出して、消費者の4つの権利を宣言しました。米国の全国民のほとんどが実は消費者であるのに、なぜ消費者の声がこれほど世の中で無視されているのか。それは彼らが容易に団結しにくいからだ。それゆえ、最大の集団でありながらその利益が無視されてきたんだというわけです。一方、日本の法律はいまだに消費者保護基本法。保護という言葉の中には、保護を施す方と受ける方という概念が前提にあるんです。いわゆるお上依存意識というのが、法律の名前にも表われている。
ハンセン病判決が予兆する司法の地殻変動
櫻井: そういう意味でも、今回のハンセン病訴訟の判決がいかに画期的かということですね。薬害エイズ事件では、厚生省の松村明仁元課長が、官僚としては不作為の罪を問われて初めて刑事訴追されました。立法府の不作為を罪とした熊本地裁のハンセン病訴訟の判決が、薬害エイズの松村ルートの裁判に影響を与えることはあるのでしょうか。
中坊: あり得るでしょうね。日本の司法はやはり変わってきている。地殻変動が起き始めていると私は思いますし、この地殻変動そのものは根本において正しい。日本人のお上意識が揺れ動き始めていること自体は非常に歓迎すべきことです。
櫻井: 対照的に東京地裁は薬害エイズ裁判で、患者や被害者の立場を置き去りにした判決を出しました。熊本地裁の判決は、政府が控訴せずに確定しましたが、それは地裁の判決です。熊本地裁の判決が東京地裁に影響を与えるなどということはあるのですか。熊本地裁の判決は日本の司法全体にどんな影響を与えるのでしょうか。
中坊: それは直接は与えません。判決は一つの事件に関してだけのもので、他の事件には無関係だということになっていますから。しかし、私はあえて「影響はある」と言うんです。仮に私が国会で櫻井さんの質問を受けて答弁しているのなら、それは「ないです」と言いますよ。しかし中坊は法律家のくせに何だとか言われるかもしれませんが、もっと根底にある大きな流れを考えれば、これは東京地裁の裁判官をもやはり動かすのではないかと思うんです。
しかし、まだ万々歳だとは言えません。小泉内閣をもってしても、国会の不作為に関しては安易に容認できないと政府声明を出し、建前そのものは崩していませんからね。そういう意味では、影響はすると言っておきながらも、冷静に判断すればまだまだブレーキがかかるかもしれません。
櫻井: 時代の変化は、ハードファクツとしてやってくるより先に、空気としてやってくることを考えると、その変化は確実に起こり始めているのかもしれません。
中坊: 先に言った熱狂と暴走による一時的な流れというよりも、お上に任せていてはいけない、国民主権なんだ、自分たちが主権者なんだという根本的な発想につながっていますから、非常に普遍的な真理をついている。その意味においては、この真理は覆い隠すことができないし、真理は真理として動いていくのではないかと思うんです。その真理をいろいろな雲とか、ややこしいやつらが隠してきた。その隠れ蓑がパッと瞬間的にも切断されて、そこに光が差し込んだという意味においては、地殻変動が起きていると私は評価します。
司法制度改革審議会でも、裁判員制度などが審議できる環境になったのは、先の熊本地裁の判決のように、やはり真理の動きですわ。
櫻井: その流れがせき止められたり、逆流したりしないようにしなければいけません。司法改革は、日本人が自らの国民主権の意識を問い直し、一人一人が自立・自律した国民になれるかどうかを問うものだと言えますね。