「『池田小殺傷事件と司法改革』を考える 司法は精神障害者の犯罪を医療に委ねていいのか――戦後最大の改革の是非を問う」
『SAPIO』 2001年7月11日号
司法改革が日本を変える 特別対談(前編) 最終答申を撃つ!
「7人のお友だちへ 今はみんなで楽しく遊んでいるでしょうか?」
「どうして君たちが犠牲になったのでしょう? お父さんやお母さんたちは君たちを助けてあげることが出来ませんでした」
「これからお父さんやお母さんは二度とこのような恐ろしい事が起きないように考えていきます。 どうか、みんなでほかのお友だちを守ってあげてください」
大阪教育大学付属池田小学校児童殺傷事件で亡くなった塚本花菜ちゃんの両親が校門に供えた追悼文の一部だ。
この事件では「触法精神障害者を野放しにしている」などの批判が相次いだが、それより深刻なのは、司法関係者・政治家がそうした問題をわかっていながら議論の複雑さを理由に、30年以上も有効な制度改革を怠ってきたことではないか。
折しも戦後最大の改革を掲げる政府の司法制度改革審議会の最終答申が6月12日提出された。法曹人口の増大、ロースクールの創設、裁判員制度の導入などが謳われている。ようやく日本でも時代の空気を呼吸する司法が生まれる機運が高まりつつある。だが、この両親の重い問いかけに応えることは可能なのか。司法関係者のみならず国民すべてが司法のあり方を問い直さなければなるまい。
最終答申の当日、審議会のメンバーで元日弁連会長の中坊公平氏とジャーナリストの櫻井よしこ氏が司法改革の意味を論じあった。
櫻井: 大阪教育大学付属池田小学校の児童を8人も殺害した事件で逮捕された宅間守容疑者は、1999年に起こした傷害事件で精神鑑定の結果、不起訴となり措置入院の処分を受けていました。この事件は退院時のことでしたが、これに関連し、NHKの番組で容疑者・被告の精神状態に問題がある場合、医療の点と刑法の点において不備を正していかねばいけないと小泉首相が指摘しています。中坊さんはこの発言をどう評価されますか。
中坊: 刑法まで直す必要があるかどうかは別として、法制度あるいは運営に不備があったという意味においては、私も同じ意見です。精神障害者が犯罪行為を行なったときに、精神鑑定で心神喪失が認められれば不起訴あるいは無罪となり、措置入院させられることがあります。ところがどこかの病院に送ったら、もう裁判所や検察の手を離れてしまい、後は実質的に精神科医だけの判断に委ねられるというのが現実なんです。犯罪とか社会全体に対する考慮は必ずしも十分にはなされることなく、病院という非常に狭い範囲での判断だけになり、そこへ至るまでの過程とは切断して判断されてしまっている。
櫻井: 日本では精神障害者の隔離数が劇的に減っています。その根本には法的あるいは医学的コンセンサスはあまりなく、経済的な側面が大きいのです。これまで精神病院は、普通の病院に比べて医師の数も看護婦の数も少なくてよく、コストがかからない仕組みになっていました。ところが厚生省が方針を変えて、普通の病院並みの医師と看護婦を要するとし、古い施設を建て替えてシステムを新しくする病院には補助金を出している。同時に開放病棟といって、長期間入院させっぱなしの患者を少なくすることで医療費を削減しようとしている。つまり、経済的な側面から精神障害者がどんどん出されているわけです。
しかし、いったん精神障害者による犯罪が起きると「どうして野放しにするんだ」という議論になってしまう。こうしたことに、司法はどう対処していくべきなのでしょう。
中坊: 実際に統計を取ってみると、精神障害者のほうが一般の人よりもむしろ犯罪発生率が低いんです。しかし精神障害者の中には、粗暴な行為をする者もいる。精神障害者を非常におおざっぱにくくり、一律に扱っていることがまず問題ですね。犯罪性の高い人たちも、精神障害の程度の大きい場合には司法では責任能力は問えないから、これは医療の問題だといって全部放り出してしまう。しかし措置入院というのは粗暴性があったがゆえの措置なのだから、医師だけに任せず司法がもっとフォローアップし、チェックする体制が必要だと思う。
櫻井: その小泉内閣に、まさに今日、司法制度改革審議会委員として最終答申を内閣に提出されるわけですが、内容的に昨年11月の中間報告と変わった点はありますか。
中坊: あまり変わってはいませんが、むしろややトーンダウンしているところがあるかもしれません。
櫻井: それは各方面から抵抗があったからですか。
中坊: 一番抵抗が強かったのは最高裁で、財務省をはじめとする各省庁からもありました。中間報告のときよりも鮮明度が薄くなった感じもします。
今回の審議会では審議のあり方について大きな特徴があります。一つは今回は議事を全部公開したこと。二つ目には多数決を取らず、常に委員の全員一致としたことです。説が二つに分かれている状態では答申を受け取る側も困るし、制度化するときも大変ですからね。しかしいろいろな声が聞こえてくる中での最大公約数ですから、物足りない点や不確定な点があったのは確かです。この答申が必ずしも全部私の意見と同じではありません。
櫻井: 必ずしも中坊さんの意見ではない部分というのは?
中坊: 司法改革には、制度すなわち形から直すのと、人すなわち中身から直すのと、二つの道筋があると思うんです。日本的なやり方は形から入って中身を合わせるというものですが、私はそれ自体が基本的に問題だと思って、制度よりも人だということを当初からかなり強く言ってきました。制度改革とは言いながらも、実は担い手の問題なんだ、担い手がどうしようもなければ直らないんだと。だから中間報告の際に立てた三つの柱も、一に人的基盤拡充、二に制度的基盤の整備、三番目に国民的基盤の確立の順でした。
ところが最終答申では、国民がより利用しやすいような身近な司法制度をつくるということで、制度的基盤が表に出てきた。私もそれには反対しませんが、それ以上に実は人に問題があったのだという点を、もっとダイナミックに国民に訴えなければいけなかったと思いますね。
櫻井: 中坊さんが言うところの、日本の司法は二割しか機能していないという「二割司法」も、人間の問題も含めての問題提起ですか。
中坊: 現実に裁判をやっていると、裁判制度そのものが大きな基本的な問題点を抱えていると感じるんです。例えば証人に対する尋問は真横にいる検察官と弁護人からくるのに、答えは正面の裁判長のほうを向いて言えという。これ、できますか?
櫻井: やりにくいですね。
中坊: それで、問いを出した方に向かって答えると怒られるんですよ。こんな応答は日常生活には存在しません。それに証人になると緊張して、宣誓書を朗読するときに緊張でものすごく手が震える人がいる。そんな状態でありながら、裁判所での証言は証拠能力も証明力も抜群にあることになっている。そういう目で裁判を見ると、裁判所は緊張している人を少しでもやわらげようと努力しているのか。むしろ逆に、自分は黒い服を着て高い壇の上に座り、脅かしてばかりいるのではないか。
だから国民の間では「裁判沙汰」という言葉が悪いイメージで響くんです。私は二割司法の二重構造と言うのですが、司法が身近にないというだけでなく、国民が救急車で司法へ行こうと思っても、その間にごっつい壕があって行けない。
櫻井: 司法自らが国民を司法から遠ざけているわけですね。
「法廷に一輪の花を」が問う裁判と市民の溝の深さ
中坊: 裁判制度の病根は想像以上に深く、構造的なところにあるように思いますね。司法は二言目には「司法の独立」と言います。確かに今度のハンセン病訴訟でもそうですが、国会や行政に対して違法だと宣言できる司法にとって、独立は非常に大切ですよ。ところが独立という概念は、必然的に独善につながりやすい。独善は裁判官だけでなく検察官にも弁護士にも見られます。だから私は「法廷に一輪の花を」と言ったんです。
櫻井: 中坊さんが日弁連の会長に就任したときの言葉ですね。
中坊: 平成元年に日弁連の会長に立候補するときに、これはええキャッチフレーズやと思って友達に触れて回ったんです。ところが、誰一人賛成しない。お前、そんなアホなこと言うな、やめとけと。だから会長に就任して最初の記者会見で、二割司法ということと一緒に「法廷に一輪の花を」と言いました。そしたら翌朝の新聞の見出しは全部「法廷に一輪の花を」。内部ではアホやと言うて怒られる言葉が、市民の目から見たら一番親しみやすい。その溝の深さこそが、私が司法改革宣言をした根幹なんです。
櫻井: 「法廷に一輪の花を」というのは、極めて抽象的ですけれども、とても大事なことを表わしていると思います。それは生身の人間の心をもっと見つめましょうということですね。私も薬害エイズの裁判を民事訴訟で5年間、刑事訴訟で足かけ5年傍聴してきましたが、今度の判決はまさに法廷に一輪の花がない判決ではないかと思います。制度以前に人間の問題だということがとってもよくわかる。では、この人間をどうすれば司法がよくなるのでしょう。
中坊: ここが非常に難しい問題で、そもそも法とは何かといえば、社会を合理的に運営するための道具にすぎないんです。基本的に人間は動物ですね。動物の基本原則は弱肉強食ですから、実は正義の実現とか法の支配というのは、人間には非常に難しいことなんです。だから司法というのは、人類が弱肉強食に終わらずに人間らしく生きていくための大変な装置で、非常に根本的なものなんですね。
ところが制度はどうしても独り歩きする。制度が制度として独り歩きし、独立が独善に変わっていく。櫻井さんがおっしゃるように、人間性を失ったものになる。
櫻井: 人間という存在の根本に関わるはずの司法が、人間から離れていってしまう。その原因は何だとお考えですか。
中坊: 裁判官は判断を間違っても自分が罰せられることはありません。今まで死刑判決が出て、再審無罪になった事件は何件も日本で出ていますが、一審死刑を言い渡した裁判官が処罰を受けたことがありますか? 裁判官がなんぼ間違ったって、検察官が起訴して無罪になったって、弁護士が弁護を失敗して依頼人が死刑になったって、法曹三者は誰も責任を負わない。間違えた裁判官を罰せよということではなくて、ここに一番の根本がある。
櫻井: 薬害エイズ裁判では安部英被告に対して非加熱濃縮血液製剤をやめて他の血液製剤に切り替えるよう進言した2人の弟子の証言が、「1回だけの思いつきのような提言」という主旨の言い方で切られてしまいました。でも医学のヒエラルキーの中で、主任教授であり最高権威と言われる人物に対して、弟子である講師とか助教授が1回でも進言したことのほうがすごいと思うんです。その弟子たちの心の葛藤を見ることなく、判決理由で酷評している。
その一方で、安部さん同様に非加熱濃縮血液製剤による治療を続けていた他の大学の医学部の教授が、いかに非加熱濃縮血液製剤を使うことが正しかったかを述べた証言は採用しています。患者の視点に立って聞くと、その教授も本来は責任を問われても仕方がない立場なのです。そんなことがどうして裁判官には見えないのでしょう。
中坊: 実は裁判官もわかっているのではないですか。だから問題はより深刻なんです。「今の裁判官はヒラメや」と私は言うんですが、ようは上しか見とらんのです。人事権を最高裁が握っているものだから、上に対して物を言うには大変な勇気がいることは重々承知なんですよ。そのうえで、もし進言を受け入れるべきだという判決を出せば、自分が裁判官制度全体の中でどんな位置になるかを考えている。だから裁判官はもっと怖いんです。
今の裁判官にはまず人間だという感覚がなくて、まず制度を守る。自分はどんな判決を出しても何も罰せられない、それが制度です。もし、ここにおける正義とはいったい何か、裁判官は良心と法律以外のものによって裁いてはいけないと言われているのは一体なぜか、人間の基本に基づいて正しい裁判をしようと考えたら、あるいは無罪という結論にはならなかったかもしれません。
櫻井: いかに法曹人を養成するかということが、改めて問われることになりますね。
中坊: 一番の基本は、実社会の経験で身につけることで、本をなんぼ読んでもあきまへん。もちろん医師に専門教育が要るのと同じように法曹にも専門的な知識が必要ですが、それ以前に実社会の中で、自分も同じ当事者だということを骨身にしみてわかってもらうことが大事です。ことに裁判官は、キャリアシステムで純粋培養するのではなく、実社会での実務経験が必須です。
櫻井: 今回のロースクール構想は、それに応えるものになるのでしょうか。
中坊: 櫻井さんが危惧されている通りで、ロースクールにしたらバラ色だということには絶対なりません。しかし今のままではあまりにもいびつな法曹人が生まれてしまう。現行制度では、司法試験に合格した人たちを1年半、司法研修所に入れます。エリート意識を持たせ、弁護士や裁判官、検察官に必ずなれるという保証をした上で実務教育をしている。そこで基本的な問題点が発生してくるんです。ロースクールにして、少なくとも実務と学問とのかけ橋として3年ないし2年の専門教育を行ない、試験をゆるめるほうがまだいいだろうということですね。
国民の新しい義務としての裁判員制度
櫻井: 最終答申では裁判員制度の導入も提言していますね。
中坊: 裁判官になった後も常に国民と接し、国民の話も謙虚に聞くような制度にしなければいけない、ということで盛られたのが裁判員制度です。裁判ではまず証拠から事実を確定し、それから法の適用をする。どうやって事実を認定するかと言えば、現行制度では裁判官の自由心証です。周りがおかしいと言っても、「裁判官の自由心証です、私がそう考えたんです」と言われたら誰も何も言えない制度なんですね。
櫻井: 裁判官の頭の中だけで決まる。究極の密室ですね。
中坊: 自由心証だから、その過程がわからない。これではちょっとひど過ぎるから、その段階で無作為抽出された一般市民の判断を入れようというわけです。陪審制や参審制に反対の人は、いわば素人さんに裁く力があるわけがないと言いますが、私はやっぱり一般の国民が参加すべきだと思う。というのは、どんな人間だって、仮に今日は偉くても明日はだめになりますよ。人間やから弱いから。一般の方と一緒に裁判に関わることで、世の中の一般常識を習うだけではなしに、それを裁判に反映していく謙虚さ、慎重さが裁判官には必要なんです。
櫻井: 米国の陪審制度は、証拠から事実を認定する段階はすべて民間人である陪審員に任せ、法律の適用と刑の量定だけを裁判官が行なうという制度です。最終答申でいう裁判員制度ではどうなりますか。
中坊: 事実認定は裁判官と裁判員とが一緒に行い、法律の適用は専門家である裁判官がやる。刑の量定はかなり常識の働くところですから、これも一般国民である裁判員が参加する。アメリカの陪審制とヨーロッパの参審制を合体したような制度になっていますね。
櫻井: 裁判員制度の対象となる裁判の範囲は?
中坊: 死刑、無期または短期1年以上の懲役の重罪事件の刑事事件に関してだけ導入することを提言しています。裁判員制度というのは、国民の側にとってもかなりの負担ですからね。司法改革は納税の義務と同じように、国民に新しい義務を課すわけです。裁判員になったら自分の仕事を休んでも裁判に行かないかん。実は国民に大変な痛みを伴うことになるんです。
櫻井: 裁判員制度によって、裁判はどう変わりますか。
中坊: まず第一に、裁判が早くなる。裁判員に選ばれて5年も10年も拘束されるとなれば、誰も引き受けないし、必ず文句が出ますよ。
櫻井: 裁判員制度には最高裁が抵抗したということですが、法曹人口の増加に対しては弁護士会の抵抗がありました。
中坊: そうなんです。数も少ない上に、法律事務も独占ですから、これは弁護士にとってはよろしい。しかし口では人権擁護とか社会正義の実現と言うておいて、これではいけません。だけど率直に言って、弁護士会内では私に対して相当な批判が出ています。特に若い人から。
櫻井: 若い人から?
中坊: 若い人たちの中から、一番反対があります。やっぱり自分たちが今、食っていけないから。こんなことを言ったら若い弁護士さんは怒るかもしれんけれども、おれらは難しい試験を受かってきたのに、中坊がしようもないこと言って、せっかくの権益をなくそうとしとると。これは弁護士を危なくするから、日本の社会正義が守れないというようなことを言うてはるね。
櫻井: それはまた、ずいぶんな理屈ですね。
「統治客体意識」からいかに脱却するか
櫻井: この答申がこれから政治家レベルで論議されるわけですが、内容がさらに骨抜きにされる心配はありますか。
中坊: そうですね。内閣に行けば今度は非公開の論議になる。答申書はこれから暗闇の中、トンネルに入るわけです。トンネルからいつまでも抜け出られないとか、トンネルを抜けたらそこは雪国別世界やった、ということになるかもしれません。僕らのほうも例えば裁判員と裁判官の数をどうするかという非常に重要なところですら、意見の一致を見ないまま今日まで来ていますからね。
櫻井: 裁判員の人数について、中坊さんの個人的な意見は?
中坊: 少なくとも裁判員のほうを多くすべきだという考えです。裁判員は何も知らない人が無作為抽出で出てくるので、裁判官とは法律の知識や考え方など、力に格差がありますから。裁判所のほうは裁判官を裁判員より多くして、我々は素人の感覚を聞けばいいという考えですが、私に言わせたら、それでは「おまえ言え、聞き置いたるわ」になるから、それはあかんと審議会でも主張してきたんですよ。
櫻井: 日本ではずっと“お上意識”があって、お上に頼ってきたから参審制はなじまないと言う人もいます。しかし私はデモクラシーのためには、それになじんでいかなければいけないのだと思うのです。
中坊: 明治維新以後、日本は近代化したというけれども、それは形だけの近代化で、実は日本人の意識はまだ統治客体意識から抜け出し得ていないと思う。今の日本は民主主義や言うけど、私に言わせれば観客民主主義や。テレビのニュースキャスターの発言に、みんなが「そうだ」と言って歓声を上げている。グラウンドに降りずに観客席にいるんです。ほんまの意味の民主主義というのは自分がグラウンドへ降りてやらなければいけません。
日本は戦争に負けて国民主権の国家になったと言いますが、ほんまの意味の国民主権にはなっていない。日本人には依然として統治客体意識があるんです。これでは法の支配自体が十分に機能しません。
櫻井: 裁判員制度は、日本人がグラウンドに降り立つきっかけになるということですね。
中坊: 私の大好きな言葉に「our town,our court,our lawyers」というのがあります。今の日本の司法は、あまりにも二重構造で、裁判所の常識と世の中とが離れ過ぎていますが、本来、司法というものは国民が支えるもの。何より大切なのは司法も我々のものなんだという意識で、だからこそ世界各国で裁判を公開している。私が司法改革は人が問題だと言うのは、法曹三者に限らず、国民という人そのものが司法を支えなければ、日本の司法はよくならないということなんです。
櫻井: しかし、一方には、そもそも日本人に合う司法制度とは何かを考える必要があると思うんです。司法改革の直接のきっかけは、オリックスの宮内義彦会長をはじめ、経済界から「今の日本の司法では国際社会に対応していけない」という声が上がったことでした。しかし改革で人数を増やしましょうというのも、グローバライゼーションであり、ある意味でアメリカナイゼーションです。では米国のように、何でも裁判に訴えて自己防衛する社会になりたいのかといえば、決してそうではありません。
中坊: そうなんです。グローバリズムやからと言って、何もかも外国のものを無批判に輸入すべきだとは私は思わない。日本は特殊というか、狭い国土の中で温暖な気候と水資源に恵まれ、ずっと狩猟採集でやってこられた。諸外国にはある牧畜の時代がなく、弥生時代になって農業が始まるまで所有権という概念がなかった。法というものになじみにくい風土があるんです。
日本においては、義理とか人情というのが、法にかわる非常に大きな社会規範だった。だから例えば家庭の中であまり法律を出されたら困る。そういう独自の自然風土や文化・文明があり、その中における司法のあり方がある。だから法曹人口にしても、先進国の中では一番数の少ないフランス並みにしたらどうですかと提案しているわけです。
櫻井: 司法制度を充実させながら、いかに日本人本来の解決能力を形にしていくか。しかし、そのあるべき姿は、実はまだ見つかっていないように思います。
中坊: 司法改革の中で絶対に欠けてならないものは、私たち国民が自分の足で立つこと、自立することです。国民主権の思想だけは、どの国に行っても失うことのできない万国普遍のものだと思う。日本人は自立しなければいけません。自立には、自分の足で立つ「自立」と、自分を律する「自律」がある。櫻井さんもおっしゃるように、あまりにも権利・自由ばかりが多くて義務が書かれていないから、自分を律することが少なくなってきたという問題点もあります。自立の裏側には自分を律する自律、自分の責任というものが絶対あるはずなんですね。
その万国普遍の原理に立って、日本の自然風土や歴史的風土から来た特質をどう国際的な中で生かすのか。司法のあるべき姿というのは、そこにあるのだと思います。
櫻井: 国民の成熟度が問われる。ことに裁判員として加わる以上、個人個人がもっと成長していかなければいけませんね。
(以下次号)