「 田中外相が外交・外務官僚に対し私情で判断・行動しないよう望む 」
『週刊ダイヤモンド』 2001年6月23日号
オピニオン縦横無尽 第400回
田中外相をめぐって連想するのは「熱狂」と「暴走」という民主主義につきものの2つの言葉である。彼女への支持率は8割を超す。人気のもとは、外務官僚をバシバシとやっつけるあの舌鋒の鋭さである。“煮ても焼いても食えない”外務官僚が多いだけに、それはそれで胸のすく想いにはなる。
だが、田中VS外務官僚の対立の構図を考えるとき、私たちはもうひとつの対立が存在したことも忘れてはならない。彼女が村山内閣で科学技術庁長官だった時の対立である。新欣樹官房長が、当時議論されていた特殊法人問題で、整理統合の対象を具体的名前で論じないでほしいと田中氏に要請したついでに「霞が関は公器であり、大臣の私物ではない」と発言したことが理由とされた。新官房長は更迭されたが、その後、田中大臣が科技庁所管の特殊法人の見直しにどれほどの実績を上げたかは疑問である。
同じ意味で、外務官僚との派手な対立のすえに、田中外相が具体的にどれだけ外務省改革の実績を築くかを見て、評価を下すのがおとなの判断というものだ。
田中外相への評価の軸がその外交政策であるのは言うまでもない。就任早々、小寺次郎ロシア課長を呼び戻す力技で、ロシア外交を四島一括変換路線に引き戻したのは正しかった。
北方四島の歴史を振り返れば、あの島々にソ連軍が初めて上陸したのは、1945年8月18日である。当時そこに住んでいた日本人1万7000人は殺害されたり強姦されたりして、全員が島から追い出された。四島はまぎれもなく日本固有の領土であるから、日本政府が四島返還を対ソ外交の主眼にしたのは当然だ。
56年に鳩山一郎首相が訪ソしたがソ連側が北方四島返還を認めず、平和条約も結ばれなかった。国交のみ回復して結んだ日ソ共同宣言は、平和条約締結後に歯舞、色丹二島を返すという内容だった。
73年に田中角栄首相がモスクワを訪れた。この時は、ニクソン大統領のイニシアティブにより米中接近が図られた時期で、孤立を恐れるソ連が日本に接近したのだ。日本有利の歴史の潮の流れに乗って、田中角栄はブレジネフに北方領土問題は“四島”問題であることを認めさせた。鳩山の時の二島から、四島へと交渉の基調は日本の主張に沿うものとなった。
さらに20年後の93年、エリツィン大統領が来日し、細川護煕首相と東京宣言を出した。ソ連が崩壊しロシアとなった時点で、彼らの経済が疲弊し、軍事力も政治力も低下していることが明らかになった。またもや交渉は日本有利である。この東京宣言でロシア側は初めて歯舞、色丹、国後、択捉という四島の固有名詞を書き入れた。またもや日本外交の勝利である。
その後、外務省内も政治家も四島返還論者と二島先行返還論者に分かれてしまった。そこに登場した田中外相が四島一括変換を主張するのは正しいが、彼女は日露外交の起点は73年の田中・ブレジネフ対談だと述べた。それは角栄の娘としては正しくても、日本国外相としては誤りだ。外相として日露外交の起点とすべきは93年の東京宣言である。
この事例から感ずるのは、田中外相の外交政策の基本は国益よりも私情にあるのではないかということだ。
外相は6月13日、訪米して米国に対して日本の外相として言うべきことを言うと述べた。そうしてほしい。が、同じように日本の外相として、中国にも北朝鮮にも韓国にも、言うべきことは言ってほしいのだ。言うべきことを言う相手国を、父、角栄に対しておのおのの国がどう振る舞ったかを基準とする“私情”で選択するようなことがあってはならないのだ。