「 翼模様 」
『区画整理』 2001年6月号
随想
遠い昔、外房の海を一望する崖の上で、不思議な音楽を聴いた。太平洋の波の音と吹き通っていく風の音に、その音楽は、まるで生まれる前からの約束事のように、自然に溶け合って共鳴していた。
楽器はアナポラス。鈴木昭男さんというアーティストが作ったもので、構造は簡、素材はいたって素である。空き缶を2 つ、長いコイルでつなぎ、2 人の人間が端っこを持って離れて立つ。一方の側の人が、コイルを指でサラリと撫でる。
すると不思議にも、コイルの音は吹き渡っていく風の音のようにサワサワサワーと響いて空中に拡大、拡散されていくのだ。指に少し力を入れてこすると、コイルの音はたちまち変化し、ザワザワーという響きに転じる。
心地よいそよ風の音も、花を散らせる強い風の音も、木の葉や小枝くらいは吹き飛ばしてしまいそうな嵐のような音も、アナポラスから巧みに演出され、生まれてきた。それだけではない。端末につなげた空き缶に声を吹き込むと、声はコイルに伝わり、共鳴し、震動し、これまた不思議な多重唱に変わるのだった。
鈴木さんが片方の空き缶に、優しい柔らかい声を吹き込んだ。ポワポワポワーと響いて肉声が風の流れにのって音楽となり、空へ空へと広がっていった。聞いていた私たちは喜んで一斉に拍手した。
パチパチパチというささやかな音が、また風に乗って崖の上に広がる空に響いていった。
ゆっくりと流れていく時間の中で飽きずにそんなことをしていると、驚くことがおきた。上空を渡っていく一羽の鳥が、アナポラスの音楽に応えたのだ。鈴木さんが繊細なそよ風の音をコイルから紡ぎ出し、ポワポワーという多重奏を奏でた時、空飛ぶ鳥がピーッと一声鳴いたのだ。私たちは一斉に空の鳥を仰ぎ見た。鈴木さんが再びそよ風を奏で、ポワポワポワーと響かせた。鳥はまたもや、一声、ピーッと鳴いた。
確かに、鳥は応えていた。地上から海風に吹き上げられ響いていく音楽に、鳥が応えたのだ。私たちは大きく目を見開いて互いの顔を見合ってしまった。夏草のむせるような香りと明るい陽射し。その中で幸せな興奮と感動が伝わっていった。
私はなぜか鳥が好きだ。人間が二本の足で一所懸命に道を歩くとき、鳥たちはいとも易々と道を越え、川を越え、山を越え、海を渡っていく。気流に乗れば、翼を動かすことさえなく、遠く遠く、飛翔していく。ずっと前、彼らがどれ程優雅に風をとらえ、どれ程鋭く風を切るかを堪能したことがある。
日本海に面する氷見の海岸でのことだった。豊かな漁場であるこの海の周りには、多くの鳥たちも集ってくる。その中でひときわ目立っていたのが鳶ことトンビだった。
この鳥は日本全国比較的どこでも見かけるが海岸線近くでは特に多いように感ずる。日本人には馴染の深い鳥で“トンビがクルリと輪をかいた”などと歌の文句にもなってはいるが、その割に評価は余り高くはない。
「鳶が鷹を生む」とか「鳶も居ずまいから鷹に見える」などと言われ、鷹や鷲に較べられてまるで三枚目、三流扱いである。
けれど、何事も相対である。どこを、何を基準にするかで全ては変わってくる。トンビだって、例えばカラスと比較すれば威風堂々、なかなか威厳のある存在である。そしてトンビの前では、まるで見劣りのするカラスだって、鳩や雀の前では大きくて貫禄があるように見えてしまうのだ。
氷見の海岸で戯れたのはトンビたちだった。ドライブの途中、この海の美しさに見とれながら用意してきたランチボックスを開いた時のことだ。 人なつこい鳥たちがそれとなく近寄って来た。カモメやカラス、セキレイまでも美しい姿を見せていた。彼らの中でもひときわ大きいのがトンビだった。
トンビは砂浜に降りて来ることなどしない。山際の梢の上にとまったりしながら、こちらの様子を眺めていた。
で、ランチボックスの中から、サンドウィッチの余りのパンを一切れ、遠く遠く投げた、つもりだった。比重の軽いパンは、力一杯投げてもトンビのいる遠い枝には届かずに、海岸の砂地に落ちた。それを見たトンビはまるでそのパンが自分に与えられたことをはじめから理解していたかのように、飛び立ったのだ。でも、まっすぐにパンに向かわずに、まず、上空高く舞い上がっていった。
そんな高い空から、小さなパンの切れ端が見えるのか。こんな人間の思いをよそに、トンビはさらに高く高く舞い上がる。そして翼を大きく広げて気流に乗り、漂いながらも確実に高度を下げてきた。
翼を広げたトンビを見上げると、翼の裏側の模様がくっきりと見える。地味ながら美しい。羽根の形がまず、文句なしに美しい。一枚一枚の羽根が見事に揃ってシンメトリックな秩序美を構成している。色は、翼やトンビの体の表側の茶の色よりはうすい茶と灰色と白の混合である。
柔らかな色調の翼を羽から羽まで全て広げてトンビはさらに高度を下げてくる。まさに歌の文句のように大きく輪を描きながら降りて来るのだ。
気流に乗った翼が、風の抵抗に耐えながら細かく震えている。ブルブルと震える翼、優雅に見えても鳶はかなりの力を入れて風をコントロールしているのだ。そんな鳶の技が肉眼にくっきりと見える距離まで迫ってきた時、この賢い鳥は鮮やかに、これ以上ない程の鋭い角度で空気を切り裂いた。その瞬間、水平飛行から直滑降飛行へと身を躍らせ、トンビは電光石火の素早さで砂浜のパンくずをとらえて飛び去ったのだ。
惚れぼれとする身のこなしだった。風まかせのような優雅に見える水平飛行から滑降飛行に移るとき、トンビは片方の翼を、そのつけ根のところでグイと九〇度に曲げるのだ。気流を断ち切るようなそのアクションは視線を獲物から外さないまま、頭部を九〇度下げるアクションと連動して行われる。こうして体ごとダイブする体勢に、瞬時にして入っていくわけだ。
私たちは飽きることなく、このトンビのダイブを誘った。人なつこい鳥は、飽きもせず応えてくれた。
何度見ても、高い高い空を飛びつつ決して獲物を見失わない彼らの眼力の凄さと、あの鋭い翼の切り返しは驚嘆ものだ。子どもの頃に読んだ佐々木小次郎という剣の天才の、ツバメ返しの殺法は、きっとこんな鋭さだったのだろうなどと考えてしまったほどだ。
私はこの氷見の海岸でのトンビとのひと時以来、この鳥たちをすっかり見直してしまった。それまでは強い印象もなくすごしてきたのが申し訳なく思えてさえきた。なんと賢く、敏捷な彼らであることか。
観察していて心打たれるのは、トンビだけではない。考えてみるまでもなく、人間に較べれば小さな存在である鳥たちは、身ひとつで自然に対峙している。命を守り、子孫をつくり、長らえていくための戦いを、まさに小さな体ひとつでこなしているのだ。
そんな彼らの、必死の戦いの形相を身近に観察する機会があった。今年の春先のことだった。花の季節に突然、雪が降り積もった日のことだった。
雪だけでなく風も出てきて、ちょっとした雪嵐のような具合になったとき、わが家のベランダに仕つらえた小さな庭の樹木の木陰に一羽の目白が飛び込んで来た。あの美しいモスグリーンの体にも頭部にも、雪が降りつもっていた。白とグリーンのまだら模様になったこの鳥は、降りしきる雪、横殴りの雪から身を守るために、ほんの小さな風よけの空間を探して飛んで来たのだ。
ちょっとした下枝にとび込んできた目白の様子は、まるで、決死隊の一員のような形相をしていた。人間の表情とは異なり鳥の顔が、緊張や恐れで目に見えて歪んだりすることは、恐らくないはずであろう。にもかかわらず、この小さな鳥の形相は必死だった。歯を喰いしばって雪嵐に耐えているような顔だった。枝にとまったその姿勢は、吹きとばされないように身を低くしてどんな緊急事態にも対処できるように、見るからに緊張していた。
そんな健気な鳥の姿を、人間の私は、建物の中から、守られたところから見つめていた。人間を遥かに越える逞しさに、圧倒されつつ、改めてこの小さな命に、敬意と愛しさを感ずるばかりなのだ。
社団法人 日本土地区画整理協会 『区画整理』 2001年6月号より