「 “法は人間のためにある”を実践したハンセン病訴訟控訴せずの決断 」
『週刊ダイヤモンド』 2001年6月2日号
オピニオン縦横無尽 第397回
「もういいかい お骨になってもまあだだよ」
これは岡本県邑久光明園のハンセン病患者中山秋夫さんの詠んだ川柳である。ハンセン病とされれば強制的に隔離され、家族との連絡も断たれ差別され、そして二度と故郷に戻ることは許されない。死んでお骨になっても、まだ故郷に戻ることはできない現実を詠んだものだ。なんと深い哀しみと諦めの歌であろうか。
この人たちが起こした裁判に、国は敗れ、小泉首相は控訴せず、判決を受け入れる選択をした。ハンセン病患者のたどってきた道筋とその苦しみ、悲しみ、憤りを思えば、為政者としてそれ以外の選択はなかったといえる。
ハンセン病患者の強制隔離は1907年(明治40年)制定の「癩予防ニ関スル件」という法律で始まった。同法を貫いていたのは、「ハンセン病患者の根絶」という考え方だ。31年に法律は「改正」されて「癩予防法」ができたが、内容はほとんど変わらなかった。逆に、社会の偏見は強まり、隔離政策はさらに徹底された。ハンセン病患者を完全に排除するために政府は全国的な「無癩県運動」を展開し、有無を言わさず患者を連れ去った。
「田草取る最中を 吾は強ひられて この療園に 収容されき」
「療園に 収容される 朝立ちを 門に送りくれし 母遙かなり」
いずれも19歳で収容された上田正幸さんが詠んだ慟哭のうたである。
収容された彼らは、劣悪な医療環境下で、栄養も不十分な生活を強いられた。重症患者の世話は軽症患者がみるのが当然の状況だった。専門医が適切な医療を施すこともなく、ハンセン病だけでは受けることのない体の損傷が次々と起きていった。
「Y・E」とイニシャルで書いた患者の訴えである。
「病気の説明はいっさいなく、食糧難時の食べ物の自炊や入浴で、麻痺の手足に火傷などすると腐っていると言っては手術するばかりで、手足はいつの間にか見苦しく変型した」
患者の手足の変型は、Y・Eさんの訴えどおり、実は病気そのものによる直接の結果ではない。末梢神経が麻痺するために、たとえば料理をすれば、熱いものに触れても熱いと感ずることができず、火傷を負う。収容先の療養所では火傷の治療さえも十分に行なってはくれず化膿して腐っていく。そこで専門医でもない医師が適当に切断していくという状況だったのだ。
国はハンセン病患者根絶のために、断種、堕胎を強要して彼らに子どもをつくることを許さなかった。
こうした苛酷な政策は他国に例を見ない。画期的治療薬プロミンは1947年に登場したが、それ以前にも、諸外国では完全隔離ではなく家庭内での生活指導と任意の療養所への入所を基本とする対策がとられていた。
日本でもプロミンは47年に導入され、49年には政府は使用を予算化した。50年代以降は、こうした薬により、療養所内の患者の多くが“菌陰性”となった。同時に癩菌の感染力が非常に弱いことも判明した。ちなみに90年間にわたる患者隔離政策で職員からは1人の感染者も出てはいない。
だからこそ、国の責任を全面的に認めた熊本地裁判決は「遅くとも1960年には、新法の隔離規定はその合理性を支える根拠を全く欠く」っと断じた。そしてこのような法律を96年まで放置した立法府の責任を問うたのだ。
20年以上前の権利は消滅する(除斥期間)との規定が民法にあり、これをもって隔離政策を定めたのは20年以上前のことで、国の責任はないという議論を、小泉首相は政治決断で退けた。人間の視点を法の視点に優先させた同決断は、法は人間のためにあることをみせてくれたと思う。