「 社会人経験者も多く、論理的思考を重視するアメリカのロースクールとは全く違う日本の『法科大学院』構想は世間知らずのエリート培養機関となる 」
『SAPIO』 2001年5月23日号
司法改革が日本を変える 第13回
司法制度改革の大きな目玉は現行の司法試験を廃止し、法科大学院を設置し、その修了者に新司法試験の受験資格を与え、その7割程度を合格させようというものである。現在の1000人の合格者から3倍の3000人まで増員される。司法制度改革審議会は2004年には法科大学院を開講したいとしているが、どの大学に法科大学院を設置するのか、法学部を残したままでどのようなカリキュラムを組むのかなど具体的な議論はまだ始まったばかりである。日本の法曹教育を大きく変える法科大学院構想について検証する。
司法制度改革が議論されるようになった大きな要因の1つが法曹人口の絶対的な不足にあることは、この連載中で何度も述べてきました。その解決策の目玉の1つとされているのがロースクール構想で、正式には法科大学院と呼ばれるものです。
現段階では大学を卒業した後に3年間、法学部卒業者には2年間、法律の実践的なことを学ぶ法曹養成機関として位置づけられています。法科大学院を修了した者に、合格率が70%程度、合格者3000人となるような新たな試験を課して法曹資格を与え、法曹人口を増やそうという計画です。
ロースクールと聞いてすぐに頭に浮かぶのは、アメリカのロースクールですが、そこではどんな法曹養成が行なわれているのでしょうか。私たちがイメージするのは、具体的な事例を教材にしながらきわめて実践的に学んでいくというものですが、アメリカで弁護士活動を行ない、『アメリカン・ロイヤーの誕生』(中公新書)の著書をもつ阿川尚之氏は、実際にアメリカのロースクールで学んだ経験からこう語りました。
「アメリカのロースクールは大学院のレベルで、基本的には3年間です。そこで行なわれるのはソクラテス・メソッドという教授法で、何が事実か、事件の争点は何なのか、なぜ被疑者はこう言ったのか、前提をこう変えたらどうなるのかといった、論理的思考の訓練を徹底的に行ないます。例えば米国の原子力潜水艦がえひめ丸を沈没させた事件でも、艦長の過失責任を問うためには一定の注意義務があり、その注意義務が破られ、その結果事故が起きたことを事実として証明しなければなりません。『なぜここで過失があるのか』そもそも『過失とは何か』ということまで、自分で考えさせられる。私は学生時代に『ロースクールでは、混乱して何がなんだかわからなくなることが大切で、そのなかから自分で論理を組み立てられる力をつけなさい』と言われ、なるほどと思いました」
つまり答えよりも答えを導き出す過程が重要だということです。実践的な法律の知識よりも論理的思考の訓練を重視し、法曹としての基礎を身につけさせるのがロースクールだというわけです。そして実務は、ローファームと呼ばれる法曹事務所で実際の仕事を通して身につけていくそうです。
また、ロースクールの学生たちも、日本の大学院生とは大きく異なります。アメリカの大学には法学部がありませんから、ロースクールの学生は入学するまでは法律に関する知識がないのです。それだけではありません。
「クラスの半分くらいは、一度社会に出て、何らかの別の仕事をしていた人たちでした。例えば学校の教師だったり、役人だったり、医者だったり。私の周囲では、ワシントンポストの記者だった人や、大学を出てからカーレーサーをしていたという人もいました。ロースクールでは、そうしたさまざまな分野で経験を積んだ人をとても歓迎するのです」(阿川氏)
その理由は、法律というものが実際の人間を相手にする、非常に生々しい学問なのだという認識があるからだと阿川氏は言います。
一方、日本では裁判官や検察官、弁護士が世間を知らないという批判を耳にします。それは彼らが司法試験の勉強に明け暮れ、司法試験に合格すると司法研修所を経てすぐに裁判官や検察官、弁護士になる。つまり世の中や、人間の営みというものを知らないまま法曹になることが大きな原因として挙げられると思います。
逆にアメリカでは、社会経験を経てきたほうが良い法曹になれるという考えです。そしてロースクールを卒業した者が皆、法律関係の仕事につくとは限りません。それこそ彼らが様々な形で社会に関わっていくなかで、社会全体にリーガルマインドが広がっていくという社会の仕組みになっているのです。
書けない、話せない、議論できない日本の大学生
法律に限らず、日本の教育は技術論に偏りすぎている面があります。もちろん技術は大事ですが、その技術を駆使し、技術が本来目指している価値観を最大限に引き出すには、そもそもその技術が何のためにあるのかを理解する必要があります。例えば法律で言えば、法の精神や正義、公正、秩序、そして権利とは何かというような基本的な理念です。その点、ソクラテス・メソッドで、自分なりの理念を確率していくアメリカのロースクールの教育法には頷けるものがあります。
翻って、日本の法曹育成はどうなっているのでしょうか。法曹人のほとんどは法学部、しかも一流大学の出身者ですが、しかし日本の大学の法学部は法曹育成機関としてはほとんど機能していません。そのため法曹を志す学生の多くは、司法試験受験のための指導校に通っているのが現状です。
指導校では試験に受かるためのテクニックばかりを教えているとの批判もありますが、司法試験受験界の“カリスマ”と呼ばれる伊藤真氏に聞くと、現実はそうではないようです。
「よく受験テクニックばかりが強調されますが、試験に受かるためのテクニックというのはごくわずかです。司法試験はテクニックだけで受かるような甘い試験でなく、その法律がわかっていなければ絶対に受かりません。だから私どもでは、9割くらいは、権利とは何か、義務とは何か、憲法はなぜ存在するのかといった、本当に法律の基礎の基礎を教えるのです。大学では先生の研究テーマに即したレベルの高い授業ばかりで、学生はついていきにくいのかもしれません」
この話を聞くと、司法試験の予備校がアメリカでいうロースクールのような役割を果 たすように思えるかもしれません。しかし、その実態には雲泥の差があります。伊藤氏が続けました。
「今の学生たちの中には、日本語すらまともに書けない人も多いのです。前に東大生の国語力が低下したという記事が新聞に載っていましたが、まさにその通りだと思います。本当に文章を読めない、書けない、話せない、議論ができない。それほど日本語力が低下している学生たちに法律的な難解な文章を理解させ、議論させるのですから大変です」
そのため、伊藤氏の学校では、それこそ「てにをは」や句読点のつけ方から、手取り足取り教えるといいます。
「アメリカのロースクールは、高校及び大学までの教育の前提があるので、法律的な文章の書き方を教えればいい。ところが日本では高校までの教育課程でそういう勉強をしていないので、どうしてもギャップができてしまう。それこそ小学校から改造していかなければならない問題なのです」(伊藤氏)
そればかりか、最近の学生たちは挨拶さえできないそうです。
「だから私たちのところでは、まず挨拶をしなさいというところから始めます。遅刻も厳禁で少しでも遅れたら教室には入れません。講義が始まるときには『皆さん、こんにちは』から始めて、必ず挨拶をしてもらいます。エレベーターで会っても挨拶をしないので、挨拶はちゃんとしろと指導したり……」
この話を聞いていて、私は暗澹たる気持ちになりました。伊藤氏の志はアメリカのロースクールが行なっているような、リーガルマインドの養成にあります。しかし目指す方向は似ていても、そのレベルは小学生と大学生ほども違いがある。この実態を見ると、日本の戦後教育は完全に間違ったということを改めて痛感せざるをえません。この事態を招いた文部科学省の罪は極めて重いと考えます。
医学部になぞらえた文部科学省の構想
では日本の法科大学院構想は、どのように浮かんできたのでしょう。司法試験は法務省の管轄ですが、法科大学院ができればこれは文部科学省の管轄となります。文部科学省高等教育局担当審議官の清水潔氏は、その経緯をこう話します。
「平成7年(1995年)に法曹養成制度をどうしていくかという法曹三者(裁判所、法務省、弁護士会)協議があり、法曹人口の増員が必要だということで、司法試験合格者を将来的に1500人(当時の合格者は700人程度)にし、若年合格者を増やしていくという議論がありました。実はそこに法曹三者以外の委員が入り、法曹養成制度における大学の関わり方が議論されたのです」
そして97年(平9)に出された自民党司法制度特別調査会による司法制度改革の基本方針では、ロースクール方式の導入も検討事項に入れられました。
「当時はちょうど大学審議会が始まっていて、法学教育と法曹養成の有機的関連をどうつくるかという課題が残っていました。大学は法曹養成には関係ないものとして置かれているが、それがシステムとして本当にいいのか。これまでの法学教育は、ゼネラリスト養成教育ということで、目標、目的、理念が極めて曖昧なまま推移し、法曹養成制度とは関連がないという実態がありましたから」(清水氏)
そうした中で、新しい形態の大学院としてロースクールが提言されたというわけです。
ここで清水氏は、医師の養成制度を引き合いに出し、こう話しました。
「医師の場合は、卒前教育として、6年間のなかで4年から5年にかけて臨床実習に入っていきます。そして国家試験があり、合格後は2年間の臨床研修が義務づけられている。つまり卒前、国試、卒後の実地研修がプロセスとしてシステム化されているのです。また、例えば付属病院では研究と実習、実際の診察のベースが渾然一体となってコアをつくっている。同じプロフェッショナルでありながら、どうして法曹にはそうしたシステムがないのか、ということが問題意識の1つとしてあるのです」
しかし、日本の医師養成が果たしてうまく機能しているのか、私は甚だ疑問です。文部科学省ではプロフェッションについて、“それ相応の技術を身につけた人間”という意識が強いようですが、技術以前の問題があるのではないかと思うのです。医療というまさに人間の生命に関わる仕事でありながら、人間の命の大切さを理解できない医者はたくさんいます。技術的には高いレベルにあっても、日常の医療のなかで本当に素晴らしい医療だと思えるような体制は一般論としていえば残念ながら整ってはいません。
むしろ医術とは何なのか、生命とは、健康とは何なのかといったものに対する認識の大きな歪みが、1つの原因として見て取れます。こうした哲学の欠陥、構造的な欠陥を文部科学省は自覚していないのではないでしょうか。
日本の医療は大学の医学部を中心に構築されていて、医学部の教授が非常に大きな権威を持つ一方、開業医はともすれば見下されがちです。しかし本来は開業医こそが患者、つまり国民との接点であり、医療の原点であるはずです。もちろん医学部における基礎研究や、遺伝子治療など最先端の研究は非常に大きな機能を持っていますが、それと同じくらい開業医も大事だと思うのです。
こうした構造的な歪みが法科大学院によって新たに生まれてくるのではという危惧もあります。
人間を理解しない法曹がこれ以上増えて良いのか
これまで私が指摘してきた医師養成と法曹養成の欠陥が顕著に表われたのが、先の薬害エイズ裁判の判決です。安部英被告は、アメリカでの非加熱濃縮血液製剤の危険性を知りながら、しかも臨床医として自分の患者が亡くなっていくのを目の当たりにしながら、非加熱濃縮血液製剤の投与を続けました。こうした姿勢が専門家の間に蔓延して肥大が拡大し、死亡者は500人を超してしまったのです。眼前の患者の様子を見ながら、時々刻々、適切な治療を施していればこんなことにはならなかったはずです。これが医療だとはとても思えない行為でした。
その安部被告を無罪にした裁判官はどうであったか。60数ページにわたる判決理由のなかで、裁判官はじつに50ページ以上を科学論文の分析に費やしています。そして証言者たちの置かれた立場や心の動きをまったく解さず、証言を「信用できない」とバッサリ切り捨てました。この判決理由を何度読んでみても、非加熱濃縮血液製剤の注射を打たれて亡くなった未来ある若者の無念や、家族の苦しみに対して思いを致しているとは、まったく感じられないのです。
視点の置き方を完全に誤った裁判だと私は思います。あたかも机上の論理で人間の営みを判断しようとしているようですが、そんなことができるはずがありません。裁判は何のためにあるのか、法律は何のためにあるのか、裁判官たちはそのことをまったく学んでこなかったのではないでしょうか。
どちらも医学界、法曹界という狭い世界で、世の中や人間のことを知らずに純粋培養されてきたエリートたちです。繰り返しになりますが、人間というものを理解しない医師たちを次々に輩出してきたのと同じ構造で、法曹を生み出そうというのが文部科学省の法科大学院構想だとすれば、その結果は薄ら寒いばかりです。
社会経験を積んだり他の学部で学んできた人たちに、哲学的な考え方を養わせ、法律的に考える力を養わせるアメリカのロースクールとは似て非なるものと言わざるをえません。
またロースクールをつくったとして、実際にどうやって運営していくのか、教員をどうやって確保するのかなど、法科大学院には問題が山積しています。法理論教育を中心としつつ実務教育に重点を置くというのですから、従来ともすると研究を主に行なってきた大学の法学部の教員たちは意識を改革する必要があります。そのことは、
「マスプロ一斉授業方式、講義型という教員行動、教授方法についての意識改革が必要。と同時に、ビジョンと実務の乖離を克服するという試みを伴わざるをえません」
と文部科学省の清水氏も述べています。しかし、ただでさえ法曹人口が足りないのに、実務を教える教員が確保できるのでしょうか。具体的な対策はまったく見えてきません。
大手司法試験予備校・LEC東京リーガルマインドの反町勝夫学校長が言います。
「ロースクールが出来れば、私どものような学校が潰れるのではないかという人もいますが、私は一国民としても、一経営者としても、ロースクールには賛成です。ロースクールがきちっと立ち上がって、その中で私どもがお手伝いをする分野があればさせていただきます。ただ現在は、設置基準もわからないし、肝心かなめのカリキュラムなどが未発表ですので、私どもが何を行なうかは決定できません。これらの内容が明らかになったときに、私どもの仕事も決めさせていただきます」
また、法科大学院は授業料が年間200万円とも言われ、一部のお金持ちの人間しか入ることができない、つまり法曹になれなくなるという批判も聞かれます。こんな問題山積のまま、法科大学院は2004年には開設される予定だといいます。
これまで見てきたように、法科大学院はどうあるべきか、法曹養成はどうあるべきかという問題はまったくの堂々巡りで、どこを突破口に解決策を探ればいいのかも見えてこないほど深刻です。しかし私は、さらに根本的な議論が欠落しているのではないかと感じるのです。それは私たちはどんな社会を作るのかという視点です。
「司法改革の論議は、すべて法曹のなかでの話です。日本の社会全体をどうしたいのか、アメリカのような司法国家にしたいのかどうかということが、まったく見えてこないのです」
と阿川氏が指摘しましたが、私も同感です。これまでは、日本には日本なりの争いごとの解決手段がありました。ところが地域共同体の絆が薄れ、家族のつながりも薄れて、よく言えば人間が独立性をもってきた、悪く言えば個人個人がばらばらになり自己利益追求型になってきた。そのなかでアメリカ的な価値観を追求する方向に行くとすれば、これはとても大変な社会になると思います。
法科大学院という枠組みだけの論議ではなく、もっと根本的な日本という国家のあり方、方向づけが司法改革には必要なのではないかと考えます。