「 『ロースクール』『参審制』で司法過疎解消、国民の司法参加は実現できるのか 」
『SAPIO』 2001年1月10日号
司法改革が日本を変える 第6回
司法制度改革審議会中間報告の問題点を総括する!
99年7月に発足した司法制度改革審議会が2000年11月20日、中間報告を出した。その内容は、法曹人口の増加、陪審・参審制の導入、法科大学院(ロースクール)の設置、法曹一元化など、21世紀の司法制度を目指す盛りだくさんなものとなっている。しかし本当にそのひとつひとつが我々国民の権利を守り、生活する上で必要な改革になっているのか、そしてこの改革案が実現可能なものなのだろうか――今回はその主な論点を改めて検証する。
2000年11月20日、司法制度改革審議会の中間報告が政府に提出されました。今回はこの中間報告が、本当に司法改革のあるべき姿にふさわしいものかどうかを見ていきたいと思います。
提出に先立つ11月17日、日本弁護士連合会(以下、日弁連)のシンポジウムが開かれ、冒頭の挨拶で中坊公平・司法制度改革審議会委員(元日弁連会長)は、
「中間報告の『中間』は、『真ん中』という意味ではない。1年数か月の調査審議を終えて、その結論を明らかにする報告書になる」
と、この報告書が最終的なものであることを強調し、
「担い手があっての改革。そのために人的基盤の充実、すなわち法曹人口の増大が急務である」
と弁護士を含めた法曹人口の増加の必要性を説き、司法改革への並々ならぬ決意表明をしました。
これまで司法改革や法曹人口の拡充に対して常にネガティブな態度をとってきた日弁連も、11月1日の臨時総会では、一部の強い反発にもかかわらず、最終的にはこの中間報告を承認することを採択しました。それだけ日本の司法改革は待ったなしだということです。
司法制度改革で論じられている柱の一つは、この法曹人口の問題です。
99年現在の日本の法曹人口は2万730人。法曹1人に対する国民の数は6300人で、欧米諸国と比較すると圧倒的に少ない数字です。司法大国アメリカの法曹人口は約94万1000人、法曹1人に対する国民の数は290人。イギリスの法曹人口は約8万3000人(同約740人)、先進国のなかでは最も法曹人口が少ないフランスでさえ約3万6000人(同約1640人)います。
また年間の新規法曹資格取得者数、つまり1年間にあらたに法律家となる人の数は、アメリカが約5万7000人、イギリスが約4900人、ドイツが約9800人、フランスが約2400人となっています。
日本では90年まで司法試験の最終合格者は年間500人前後で推移し、91年からようやく増加に転じて、99年には1000人に達しました。しかし、法曹1人あたりの相当国民数をフランス並みにするためには、現在の法曹人口を3.6倍の7万6000人にまで増やす必要があるのです。
11月17日の日弁連シンポジウムの第二分科会「明日の弁護士」では、こんな報告がなされました。現在、日本の弁護士の数は1万8193人ですが、そのうち東京に8600人、大阪に2559人と、二つの都市に全国の約65%の弁護士が集中しています。
そのため地方では弁護士の数が著しく不足し、全国の地裁・支所がある253か所のうち、弁護士がゼロまたは1人しかいない、いわゆる「ゼロワン」地裁・支部が75か所もあります。こうした「司法過疎」と呼ばれる地域では、住民が思うようなサービスが受けられないという現実があります。
日弁連では96年5月の定期総会で「弁護士過疎地域における法律相談体制の確立に関する宣言」を採択し、ゼロワン地域のち36か所に法律相談センターを設置しました。
2000年6月、日弁連の公募に応じ、京都から島根県の石見に事務所を移した國広正樹弁護士は、分科会のパネルディスカションでこう発言しました。
「石見に行って、多重債務者が一番喜んでくれた。今、1時間に4件の相談があり、忙しくて18件が未処理のまま。つまりそれだけ弁護士のニーズがあるということです」
ちなみに國広弁護士は公設事務所ということで、日弁連から月額300万円が保証されているそうです。
それにしても、弁護士はなぜ大都市にばかり偏在しているのでしょうか。その理由は簡単です。大都市にいないと収入が減る、不便だし文化的にも遅れてしまう、というのです。
ロースクールさえつくれば質の高い法律家は育つか
同じパネルディスカッションで、カナダのロースクールで教授をしているシン・イマイ氏は、アメリカやカナダには、人権擁護と法律扶助のみの活動をするリーガルクリニックという政府出資の機関があり、低所得者も法律相談を受けることができるようになっていることを報告しました。そこには弁護士が2~3人いて、その下でロースクールの学生たちが働いているそうです。
例えば人口800万人のカナダのオンタリオ州には72か所ものリーガルクリニックがあるとのことですから、司法サービスは日本とは比較にならないほど行き届いているといえます。
弁護士にかぎらず、日本では裁判官も検事も足りません。法曹人口を増やすのは当然のことだと私も思います。ただ問題は、どうやって増やすかです。日弁連のなかの増員に反対している“改善派”と呼ばれる人たちは
「法曹人口をむやみに増やすと弁護士の質が落ちる」と主張します。たしかに法曹人となる人たちの質の維持をしながら数を増やしていくのは大変な課題です。
今、法曹人口を増やす方策のひとつとして挙げられているのが、アメリカの法曹養成制度をモデルとしたロースクール構想です。原則3年制の「法科大学院」(仮称)つまりロースクールを設置し、従来の司法試験は廃止し、基本的には法科大学院を終了しなければ司法試験の受験資格が受けられない。そしてその中の7割から8割が新しい司法試験に合格できるようにするというものです。全国に定員4000人のロースクールを設置すれば、約3000人の新法曹人口が生まれるという計算です。
しかし、ロースクールで具体的にどんな法曹教育をするのか、教官が確保できるのかなど、まだ曖昧模糊としているのが現状です。いざロースクールという形はできたものの、まったく機能せず、質の低い法曹ばかりが増えてしまうという懸念は消えません。
ロースクール構想に絶対反対の立場をとる元札幌高検検事長で参議院議員の佐藤道雄氏が言います。
「ロースクールに通える人は限られていて、高校や大学に行けずに社会で働きながら苦労して勉強し、司法試験に合格してきたような人たちは排除されてしまう。ロースクールを設置する大学も大変な状況で、大学にも新しい格差が生まれる。質が落ちるだけでなく、そういう特権階級をつくるということ自体が問題だ。医師会、歯科医師会も10年ほど前に増員したが、今は増えすぎて減らせという事態になっている。その二の舞になるのではないか」
形を取り入れるだけでは政治改革の二の舞に
一方、ロースクール賛成派の早稲田大学法学部教授・宮澤節生氏は、「中間報告は正しい方向に向いている」と評価します。
「1回の試験で能力を測ろうとする司法試験では、試験の能力が高い人が合格するだけで、あるべき法律学の教育を包括的に受けてきたという証明はどこにもない。法学があって司法試験があって、その後に司法修習をするという『プロセス』をもった法曹養育制度が必要です」
しかし宮澤氏は、さらなる議論が必要だとも説きます。
「中間報告の法科大学院構想は、プロフェッショナルなロースクールとしては不適当です。今、大学教育は学部段階では大衆教育になっているのが現状ですから、べつに法学部出身者に偏る必要はない。むしろほかの分野の勉強をしてもらい、それを評価して入れるような入学試験にすべき。法学の知識だけを問うような入学試験にすれば、今までと同じことになるでしょう」
もう一人、元最高検検事の河上和雄氏は11月17日のパネルディスカッションで、次のような意見を述べました。
「社会基盤がなければ、理想を求めての『改悪』になってしまう。例えば、政治改革とは何だったのか。政党助成金、政策秘書、小選挙区制を導入したが、いったい政治は新しくなったのか。社会的基盤と改革対象者を考えないで改革をやった結果、こうなった。もし司法改革も同じように無批判で行なえば、国民不信は政治改革以上になるのではないか」
日本は今まで、あまりにも形だけを取り入れてきた国だということです。形を取り入れるのはうまいけれども、中身はほとんど変わらないという現実があります。ロースクールという形を取り入れるのはいいことだと思いますが、現状では河上氏が指摘するように、政治改革同様、「仏作って魂入れず」で、役に立たない法曹ばかりが増えるという可能性も否定できません。まず導入が第一ですが、宮澤氏の指摘するようにさらなる議論が必要だと思います。
キャリア裁判官は存続させるべきか
司法制度改革のもう一つの大きな柱は、「法曹一元」です。裁判官は、司法研修所を出た後、判事補(単独では判決を下すことができない)になり、10年後に判事に任官されます。いわゆる「キャリアシステム」です。しかし裁判所のなかで「純粋培養」されるため、裁判官には常識がない、行政訴訟では行政寄りの判断を下しがちだという批判が絶えません。それを解消するためにベテラン弁護士など、社会的経験の豊富な法律家を裁判官に登用しようというわけです。
裁判官のキャリアシステムの弊害について、前出の宮澤教授はこう語ります。
「職業裁判官はパターン化した認識で物事を判断する。それはまさにキャリア裁判官制度が招いたものです。司法研修所での研修では事実認定の仕方において『要件事実教育』がなされるが、これは民事裁判において過去のパターンに当てはめて事実を認定するというもの。この教育を受けて判事補になり、判事になっていくから、当然、従来の法的評価を継承させていくことになる。そのため企業からは閉塞状況にあると批判され、市民からも批判の声が出始めているんです」
中間報告は、
「少なくとも、裁判官は、その一人ひとりが、法律家としてふさわしい多様で豊かな知識、経験と人間性を備えていることが望ましい」
と記しています。それは当然です。しかし、判事補制度を完全に廃止し、キャリアの裁判官をすべてなくしてしまていいのかどうかは、簡単には判断できない大きな問題です。この点について、中間報告も
「現在判事補に偏っている判事の任用を弁護士など幅広い人材に求める」
と記述するに止まり、事実上結論を先送りしました。どのような形で法曹一元をはかるのが最もよいのか。改革は必要ですが、それでも改革のための改革であってはならないわけですから、ここでもさらなる議論が求められます。
陪審制に自分自身をゆだねることができるか
そしてもう一つの大きな柱は、「国民の司法参加」、具体的には陪審制、参審制の導入です。
陪審制は有権者のなかから無作為に選ばれた複数の一般市民が陪審員となり、裁判官から独立して有罪か無罪かなどの判断を評決するもの。参審制は招集の一般市民が職業裁判官とともに審理に参加する制度です。
かつて、日本にも陪審制が導入されていた時期がありました。『復刻版日本の陪審制』(監修・四宮啓、人文書院)という小冊子を参考に繙いてみましょう。
日本の陪審制は1918年(大正7年)、原敬内閣が立法化に着手し、その後、枢密院の反対などで何度も廃案になったものの、23年(大正12年)に加藤友三郎内閣の下で可決され、5年の準備期間を経て28年(昭和3年)10月1日に施行されました。その背景には、大正デモクラシーの盛り上がりのなかで、陪審制を求めた国民の強い世論がありました。
もちろん天皇主権制の下ですから、欧米の陪審とは異なる点も多々ありました。陪審員は被告が犯罪行為を行なったか否かだけを判断し、最終的な有罪無罪は裁判官の判断に任せること、裁判官は必ずしも陪審の答申を採用しなくてもよく、何度でもやり直しを命じるアとができること、陪審員の資格が一定額以上の税金を納めている30歳以上の男性に限られていたことなどです。陪審といっても民間人の意見が重みをもって聞いてもらえるわけではなかったことがわかります。
この制度は太平洋戦争が激しさを増した43年に停止されました。利用する人が余りいなかったことが一つの原因ですが、それにはいくつか理由がありました。
第一に社会全体が、全体主義、軍国主義に走っていくなかで、法律家自身が自由や権利の擁護という使命感を忘れがちだったこと、また、陪審制に皆が不慣れで時間的にも手続き上も負担が大きかったことなどです。
同制度が活用された15年間に行なわれた陪審裁判は、全国で484件でした。件数は少ないですが、四宮弁護士は、
「実施された個々の陪審裁判は非常に熱心かつ適正に行なわれ、関与したり傍聴した専門家を驚かせた」
と同書の解説に記しています。
では、今の日本で、陪審員制度は本当に有効に機能するのでしょうか。賛否両論ありますが、全体としては導入の方向に向いているようです。
しかし河上和雄氏は、次のような疑問を呈しました。
「アメリカで陪審員の評価が納得されるのは、仲間によって裁判されるという歴史があるからです。しかし、そうした社会的基盤が日本にはない。たんなる理念だけでいきなり陪審制を持ってきても、うまくいくはずがない。もしO・Jシンプソンのようなケースが日本で起きたらどうするのか。大弁護団を駆使し、金で無罪を勝ち取ったというようなことが起これば、今よりもっと使用に対する不信感が強くなる恐れがあります」
私は陪審制度のなかで最も問われるのは、その国に「どんな質の国民がいるか」ということなのだろうと思います。
陪審制や参審制は、裁判官の偏った判断に、一般の常識的な見方を加えるという利点と国民の司法に対する関心を高める効果が期待できます。しかし一方では、河上氏の指摘のように本当にそれで正しい判断が下せるのかという懸念があるのも事実です。
陪審制には「国民の国民に対する信頼」が不可欠ですが、今の日本で本当に大丈夫なのか。国民のなかから無作為に選ばれた人たちが陪審員になります。仮に自分が被告として陪審員の判断をあおぐ立場になったとき、「こんな人たちに裁かれたくない」と思うようでは困るのです。
アメリカでも、本当に陪審員として信頼できそうな知識と社会的経験のある人は忙しいからと陪審員を辞退してしまい、陪審員をしているのは仕事をせずに暇を持て余している人だけだという批判も生じていると伝えられます。
結局のところ、問われているのは私たち国民一人ひとりなのです。
司法改革は、二つのレベルで考えてみる必要があるのではないでしょうか。一つは純粋に法律のレベルで、変わりゆく国際ビジネスのなかで、日本企業がアメリカなどの司法戦略に対抗していくために、人材を含めた司法のインフラを整えるという問題です。このためには、数多くの法律のプロを育てていかなければなりません。
そしてもう一つは、人間同士の生の争いごとをどうやって解決していくのか、という根本的な問いです。すべてアメリカ式にのっとって、裁判沙汰で解決していく方法がよいとはとても思えません。日本人なりの解決の知恵があるはずだと思うのです。
この両方の面から考え、本当に日本にふさわしい司法改革を実現していかなければ、日本人の問題解決能力の向上にはつながらないと思います。そのためには、まず私たち国民一人ひとりが社会や司法のあり方に関心を持ち、我が事としてしっかりと考えていくことこそが求められているのだと思います。