「 政府はフジモリ氏受け容れを機に亡命・難民政策を転換せよ 」
『週刊ダイヤモンド』 2000年12月23日号
オピニオン縦横無尽 第377回
ペルーの前大統領、アルベルト・フジモリ氏への日本国政府の処遇を、国際社会が注視している。焦点は、フジモリ氏は日本人か否か。私人か否か。日本政府は政治亡命者や難民を受け容れるのか否かなどである。氏がペルー大統領に就任した1990年、日本人は日本人の顔をした人物の大統領就任を喜んだ。日本人の血を引く人物の成功を国家指導者への就任を、晴れがましく誇らしく感じたはずだ。
しかし、その時でさえ、フジモリ氏は、ペルー人であった。ペルーで生まれ育った氏は、日本人の血をひいていても、ペルー人として、ペルーの大統領になったのだ。氏は紛れもなく、一貫してペルー人であったはずだ。
が、日本政府は今、氏が日本国籍を所有していることが確認されたとして、志の日本滞在の根拠とみなし、ペルー政府が要求している身柄引き渡しには応じないとの立場だ。これに対し、リマ発時事電は「大統領就任中の10年間にわたり、国籍問題で国民を騙してきた罪は重い」との怒りの声がペルーにあることを伝えている。ペルー国民としては真当な怒りだ。
フジモリ氏が日本国籍を所持していたことは、日本人にとっても驚きだ。私たちが考えるべきは、氏が国籍を所有し、法的に日本滞在の権利を有しているとしても、そのことをどれだけ考慮していくかである。
答えを出すためには、まずフジモリ氏が私人であるか否かを考えなければならない。氏は私人だとの立場で、氏をかばう人びともいるが、その論は国際社会ではとうてい受け容れられないだろう。氏は90年から2000年まで、約11年間にわたって大統領職にあった人物である。東京からファックスで辞意を表明したとたんに私人に戻るという主張には説得力はない。フジモリ氏は、ペルー国民に、何が起きたのかの説明責任を負っているまさに公人である。したがって、氏を私人とみなして、それを根拠に氏をかばうことは、ペルーとペルー国民への背信となる。日本国の政府は決してそのような論に依って行動してはならない。
次に考えるべきは、日本がこれまで亡命者や難民を受け容れてこなかったという点だ。ならばなおさら、フジモリ氏の受け容れは理屈に合わない。これまで、どの国の亡命者も難民も受け容れなかったのに、日本人の顔をした人物なら受け容れるというのでは、人種によって差別する国だといわれても抗弁できないだろう。
私自身は、日本政府は亡命者受け容れに広く門扉を開き、難民の受け容れについても規制を緩めていくべきだと考えている。政府がフジモリ氏受け容れを、亡命者受け容れにつながる門戸開放の第一歩とし、法改正にも踏み切るならば、それなりに辻褄が合う。しかし、受け容れがフジモリ氏に限られ、理由が先述した日本人や私人というのであれば、道を誤ることになる。
たとえ日本国籍を持っていても、氏にはペルー国大統領としての11年にわたる治政への責任を認識してもらい、できうる限りの説明を、ペルー国民に対して行うよう、助言すべきだ。
ペルーに戻るか否かは、氏に任せればよい。氏がペルーに戻らずに亡命するとすれば、亡命者を受け容れ、安全に守ってくれる先進国はいくらでもある。そうした国々のひとつを選んでもらい、日本としての手厚い援助をして氏の亡命の手助けをすればよい。
そのうえで、日本はもういい加減に、亡命者受け容れへと政策を転換せよ。
いまだに亡命者も難民も受け容れないことがいかに恥ずかしいことかを、フジモリ事件をきっかけに考え、国際社会の民主主義を守っていく力にこそ、日本は成長していけ。間違っても、人権主義者と言われかねない、その場限りの処遇はしてはならないのだ。