「 こんなに違う、日米のテロへの反応 」
『週刊新潮』 2024年7月25日号
日本ルネッサンス 第1107回
米東部ペンシルベニア州バトラーで13日午後6時すぎ、演説中だったトランプ前大統領が銃撃された。トランプ氏は右耳を負傷、直後に身をかがめて次の襲撃を回避した。氏は14日に保守系の「ワシントン・エグザミナー」誌のインタビューでこう語っている。
「撃たれた際、後方を向くほんのわずかな動作で死を免れた」
ニュース映像で見ると、事件直後の動きは素早く慌しい。しゃがんだトランプ氏の周りに身辺警護官がわっと集まり、各々の体でトランプ氏に覆い被さった。犯人が次に撃ってくれば、自分の身で弾を受けて前大統領を守るというプロの行動だ。安倍晋三総理を襲った悲劇の時の状況と余りにも大きな違いである。その取り返しのつかない違いを、まざまざと見せられた。
警護官の動きとほぼ同時に重武装の男たちが銃を民衆の側に向けて演台の前面を固めた。トランプ氏が立ち上がったとき、氏の顔面を走る血の跡を全米、全世界が見た。トランプ氏は前述のインタビューでその瞬間を語っている。
「世界が見ていると思った。歴史がこれを裁くことは分かっていた。『大丈夫だ』と伝えなければならないと思った」
彼は右手の拳を高々と突き上げた。その後トランプ氏は、国内の政治的立場の異なる人々や世界各地から多くの激励の電話を受けたと明かし、共和党全国大会での大統領候補指名受諾演説は「分断されたアメリカ社会をひとつにする」ために行うと語っている。
20歳の犯人は射殺された。事件についてはまだ分からない点が多く残っているものの、暴力に対する怒りが全米に沸き起こった。なぜ安全を守れなかったのか。どうにも感心できない党派的な発言も混じっているのは確かだが、民主主義を守ることの大切さに焦点を当てた熱い議論がなされている。
安倍氏を悼む
射殺された犯人がどのようにしてトランプ氏の近くで発砲できたのか、なぜ、犯人にとって“格好の現場”となった建物の屋上を事前に閉鎖しなかったのか、責任者は誰なのか、などの疑問を明らかにすべく、下院の「監視・説明責任委員会」のジェームス・カマー委員長(共和党)がシークレット・サービスのチートル長官を7月22日の公聴会に呼ぶことを決定した。共和党は下院を舞台に民主党政権による警備上の問題を追及する姿勢を打ち出し、民主党側も直ちに前向きの取り組みを始めた。
バイデン大統領は、トランプ氏が迅速に避難したことに「感謝の意」を表明し、「アメリカにはこのような暴力が通用する場所はない」として暴力を全面否定した。バイデン氏はその後トランプ氏に見舞いの電話をかけている。またバイデン陣営は、銃撃事件を受けて一旦、政争を脇に置くべきだと判断し、大統領選挙での反トランプのテレビ広告を取り下げた。
過日のトランプ氏との一対一の討論でバイデン氏が明らかな能力の低下を見せたことで、バイデン氏に撤退を求める声があり、その場合の有力な候補者として取り沙汰されているのがオバマ元大統領夫人のミシェル氏だ。依然として強い影響力を有するオバマ氏も暴力を否定し、「政治における礼節と敬意を再確認する」ようアメリカ国民に呼びかけた。民主主義を否定する暴力に、米国人は一斉に反対の声を上げている。
ここで安倍晋三総理暗殺事件を想い出す。あの後、島田雅彦氏は山上徹也被告を「暗殺が成功して良かった」と賞賛した。奈良県警は山上被告が統一教会問題で恨みを抱いていたとの情報を漏らし、そこから朝日新聞を筆頭に安倍氏暗殺事件は統一教会と自民党、とりわけ安倍派の問題であるかのような報道が展開された。多くの人々が山上被告に同情して、拘置所に支援の物資や現金、手紙などを送った。
奈良県政においては暗殺された安倍氏を悼むことを拒絶するかのように、事件現場をすっかり作りかえてしまった。奈良県民の中にも、被害者である安倍氏の無念の死を悼む人々、その死を悲しむ人々は多いはずだが、奈良県政からはそのような追悼の気持ちは汲みとれない。
わが国のメディアの多くが事件の本質を外した報道を日々展開する中、岸田文雄首相は事の本質を把握できないままメディアに流され続けて今日に至る。
政治に暴力を持ちこむことが、どれだけ間違っているか、どれほど非民主主義的で深刻な誤りであるかを、日本社会は全体として共有しているのか、実感しているのかと、問いたい気持ちだ。そのようなわが国の現状をアメリカ社会の状況とつい、較べて見てしまう。
バイデン氏の陰謀説
といっても、アメリカ社会の反応を詳しく見ると、こちらも問題は根深い。反トランプを旗幟鮮明にする左翼系メディアの筆頭、「ニューヨーク・タイムズ」(NYT)紙は15日の社説で、暴力で選挙結果を左右しようとするのは憎むべき行為で民主主義と真っ向から対立すると説いた上で、トランプ氏銃撃は単なる異常行動ではなく暴力がアメリカ社会を汚染し質的に変えつつあるのだと警告した。
NYTは社会の政治的、文化的分断の要因として二つを挙げた。社会に溢れる銃と、過激化の一途を辿るインターネットの力である。
その上でシカゴ大学による調査として、「トランプ氏再選阻止のための暴力を是とする人々が10%、トランプ氏再選のための暴力を是とする人々が7%」だったと紹介した。
米国社会の根底にこれほどの暴力志向があるという警告だ。
片や、トランプ氏に度々苦言を呈しながらも共和党支持を明確にする「ウォール・ストリート・ジャーナル」(WSJ)紙が社説で厳しく戒めたのが陰謀説だった。共和党下院議員のマイク・コリンズ氏がバイデン氏の発言を歪曲した上で事件直後に「ジョー・バイデンが命令を発した」とXに投稿し、更にそれを拡散させたことを名指しで非難した。
バイデン氏は選挙キャンペーンの中で「自分の役割はひとつ、ドナルド・トランプに勝つことだ。(中略)トランプを標的にする時だ(it's time to put Trump in a bull's-eye)」と説いていた。
バイデン氏が比喩として使った右の表現を、コリンズ氏は現実の暗殺計画に結びつけてバイデン氏の陰謀説を煽っている。それは全くの間違いで、こんなことを指摘しなければならないこと自体、まことに恥ずかしいとWSJ社説子は憤った。
私たちはこれがアメリカの現実であることを知り、日本の現状を省みることが必要だ。テロや暴力をもっと深刻に受けとめ、非難する。落ち着いて考えることで物事の本質をとらえる努力を皆がしなければ、日本社会も日本国もアメリカのようになっていく。すでにそのような兆しが、社会のそこここに見てとれると、私は危惧を深めている。