「 対中投資が日本の首を絞める 」
『週刊新潮』 2023年9月28日号
日本ルネッサンス 第1066回
安倍晋三元総理が目指したデフレ脱却の重要性を、産経新聞編集委員の田村秀男氏が『米中通貨戦争』(育鵬社)で明解に示している。
デフレ下では物価は下がり続けるため、おカネは長く持っていればその分、価値が上がる。結果、人々はおカネを使わず、国内需要は伸びない。日本経済は中国などの海外市場に依存することになる。中国マネーで中途半端に潤うために、日本の政財界もメディアも、デフレ経済の真の元凶である増税や緊縮財政を問題視しない、と田村氏は指摘する。
資金需要の少ないデフレ経済の下で何が起きるか。カネ余り現象である。日本に潤沢な手持資金があっても、国内での運用は難しいために、高い経済成長を遂げている海外で日本マネーは運用されてきた。2002年末、日本の対外金融債権は371兆円、12年末は693兆円、22年末は1300兆円。10年ごとにほぼ倍増し、現在国内総生産(GDP)の2倍以上という驚くべき額だ。
この円資金をニューヨークやロンドンで国際金融資本が吸い上げ、中国に投資し、中国を膨張させてきた。習近平国家主席は自国に流入する潤沢な外貨のおかげで、異常な軍拡を続け、日本や台湾を威圧することができるのだ。一帯一路構想にも思い切り資本を入れられる。同構想でのプロジェクトの完工額は、19年が1730億ドル、20年が1560億ドルだと、中国商務省は発表した。これは20年の米国のODA355億ドル、日本の162億ドルと較べれば破格の規模だ。これらの巨大プロジェクトが成功する保証はなくとも、中国は巨額の投資で貧しい国々を縛り上げ、自らの影響下に置ける。
こうして見ると、世界に脅威をもたらす中国の経済力を創り出したのは日本のマネーだと言える。なぜ、この異形の国に力を与えるようなマネーの運用を、日本はするのか。究極の原因は日本がデフレ経済に沈んだままでいることだと、田村氏は強調する。日本はデフレで自分の首を絞め上げているのである。
脱ドルという共通目標
1990年以降、勤労者全体の実質賃金、婚姻率、出生率の三つはぴったり並行しながら、一貫して下がってきた。これこそデフレが私たちの暮らしや生き方にもたらしてきた負の影響のもうひとつの事例である。賃金も上がらず、結婚するのに十分な収入が得られない。子育てにも経済的不安がつきまとう。結果、日本社会全体が元気をなくしている。
デフレ克服の有力な一手は物価の高騰に追いつかない実質賃金を上げることだ。安倍総理はアベノミクスの中で財界が顔色を失うほどの賃上げを迫った。岸田文雄首相は自分も同じ路線だと繰り返している。であればその路線をもっと強力に進めるのがよい。
田村氏は資金の流れや形を追うことで国際政治の見方を深く掘り下げてくれる。たとえばウクライナ侵略戦争後の世界情勢は民主主義や法治を尊重する国々と否定する国々とに、ほぼ二分されたという視点で見ることもできる。他方、経済、金融面から見ればウクライナ戦争は米中の通貨代理戦争である。基軸通貨としてのドルを握る米国への、中国人民元の挑戦なのだ。
2022年12月、習氏はサウジアラビアを訪問し、サウジに石油の人民元取引を働きかけた。さらに今年3月には中国がイランとサウジの国交正常化を仲介した。イランはすでに人民元決済に応じており、サウジが人民元決済による石油取引に踏み切れば、中国の狙う人民元基軸通貨化は、さらに一歩前進する。中東産油国のリーダーであるサウジを取り込むことの意味は大きい。
通貨はその価値を担保するものがなければただの紙切れと金属だ。ドルの価値はかつて金(きん)によって裏打ちされていた。しかしニクソン大統領が金本位制から離脱し、その後、米国はサウジに働きかけて全ての石油取引をドル決済で行うことを約束させた。代償として米国がサウジ王家の保護と同国の安全保障を引き受けた。こうしてドルは石油によって裏打ちされるペトロダラーとして世界の基軸通貨の地位を保持した。
ロシアのプーチン大統領は米国がペトロダラー確立によって享受してきた優位性を十分意識しており、ロシア産の石油、天然ガスをドル以外の通貨で決済する仕組みを作ろうと試みてきた。習氏とプーチン氏をつなぐ絆のひとつが、脱ドルという共通の目標なのだ。
ただ、皮肉なのは中国が脱ドルを目指しながらも、ドルに完全に依存していることだ。人民元の信用を支えているのはドルなのである。
以下、田村氏の説明だ。まず、中国人民銀行は流入する外貨の大半を買い上げ外貨準備とする。次にその額に応じて人民元資金を発行する。ドルと人民元の為替レートは前日の終値を基準に上下2%の範囲内に収める。人民元は準ドル本位制で支えられているのだ。
最善の方法
ということは、人民元金融は外貨準備が減り出すと引き締めるしかないということになる。外貨準備が減っているのに、人民元資金を増発すれば、人民元の信用が失われ、巨額の資本が海外に流出し、金融危機に発展しかねないからだ。
この点こそ中国経済の致命的な弱点である。トランプ政権は覇権国の座を狙う習近平の野望を見抜き、まずはドルとハイテク産業を中国に渡さない戦術に出た。これが2018年6月に勃発した米中の貿易戦争である。バイデン政権は半導体関連などハイテク輸出規制を強めているが、対中金融制裁には極めて消極的だ。
いま国際社会は中国を最大の脅威ととらえ、如何にして中国の横暴を抑制するかに知恵を絞っている。そこで、冷静に見るべきことは中国のマネーパワーの脆弱性であろう。外貨準備は3兆ドルを超え、世界ではダントツだといわれるが、構造は上げ底だと田村氏は指摘する。外国企業による直接投資、海外市場での債券発行、銀行借り入れなどは、中国にとっては全て負債になるが、これら負債の外貨も人民銀行が最終的に吸収するため、外貨準備に計上される。
右の一連の負債の増加額は外貨準備の追加分を遥かに超えている。真の意味の外貨準備が驚くほど少ない理由のひとつは中国から巨額の資本逃避が絶えないからだ。資本逃避の規模は2015年で年間1兆ドル(140兆円)、習政権が厳しい措置をとっても22年には2000億ドル(28兆円)が海外に流出した。これでは習氏は巨額の軍拡もマネーパワーで他国を圧迫することも出来ないだろう。
つまり、中国の脅威の増大を食い止める最善の方法は中国のマネーパワーを減殺すること、言い換えれば中国に流入するドルを減らすことなのである。ならば「人民元帝国の脅威」という認識を日米が共有して中国と果敢に経済・金融分野で戦うことだ。ウォール街の影響で対中柔軟姿勢に傾きがちなバイデン政権を、岸田氏こそ励まし、前進するときだ。