「 安倍総理国葬儀、感謝で見送りたい 」
『週刊新潮』 2022年9月27日号
日本ルネッサンス 第1017回
安倍晋三元総理の国葬儀が近づいている。安倍総理の足跡を振り返ると、残した業績の大きさに改めて深い敬意を払わずにいられない。
安倍氏は「日本を取り戻す」と言った。何を取り戻すのか。日本にとって大事なものである。38歳で衆議院議員となった晋三氏はその決意をすぐに実行してみせた。
氏が政界入りしたとき、自民党は野党だった。1年後、日本社会党と結び政権を奪取したが総裁は河野洋平氏である。河野氏らは結党以来の党綱領の見直しを始めた。最大の焦点は党是、「自主憲法の制定」だった。
米占領軍が日本に与えた現行憲法を改正し、自主憲法を定めるという党創建の目的を捨て去ろうとする河野総裁ら大幹部に、安倍氏は先輩議員だった中川昭一氏らと共に立ち向かった。闘いの結果、「新しい時代にふさわしい憲法」を創るという形で結党の原点を守った。
安倍氏は、人間判断の基準は「この人は闘う人か闘わない人か」だと述べている。自身は「闘う政治家」であり、「政治家は実現したいと思う政策と実行力がすべてである。批判はもとより覚悟のうえだ」と『美しい国へ』(文春新書)に書いた。
氏は国家の基本を成す憲法は日本人自身の手で作らなければならないと言っている。生き方暮らし方、死に方に至るまで日本人の価値観を表し、国柄を表すものが憲法でなければならないからだ。
現行憲法はそうなっていない。だから改正こそ自分の政治的使命だと氏は語り続けた。単に唱えるだけでなく、氏は憲法改正実現に必要な段階をひとつずつ踏んできた。第一次政権下で国民投票法を成立させた。憲法改正に必要な国民投票の規定がないという法律上の穴をまず埋めたのだ。
第二次安倍政権は2012年12月26日に始まった。翌13年8月8日には、内閣法制局長官を山本庸幸氏から駐仏大使だった小松一郎氏に交替させることを閣議決定した。憲法改正には時間がかかることを見越して、まず憲法解釈を大幅に変えて集団的自衛権の行使を可能にし、高まる中国の脅威に備えようとした。
面妖な主張
安倍氏はこう語った。「内々に話を聞いてみると、法制局の結束は固い。歴代重ねてきた憲法解釈を変えるのであれば、法制局長官らは一斉に辞任するというのです。そうなれば内閣の土台が揺らぎます」
法制局は、憲法は9条をはじめ変えてはならないとの考えで凝り固まっていた。だが法制局の第一義的責務は法の正しい解釈を示すことだ。それが叶わないと見てとった安倍氏は、総理大臣に与えられた権限を行使してトップを交替させた。
交替させられた当時の内閣法制局長官、山本氏は集団的自衛権の行使容認のために憲法9条の解釈を変えることは従来通りできないと拒否し続けていた。朝日新聞は当時この人事を批判した。新法制局長官に外務省出身の小松氏が就任すれば、法務、財務、経済産業、総務の4省出身者が、交替で長官に就任する長年の人事慣行が破られるというのだ。
面妖な主張である。4省出身者が持ち回りで法制局長官の職に就くのが日本国の為になるのか。大事なことは各省持ち回りの順番を守ることでも、朝日新聞や山本氏らの特定のイデオロギーを日本国に押しつけることでもない。日本国が日本国の法及び国際法の下で正しく判断し行動できるようにすることこそ重要だ。法的に正しく日本の能力を高めることこそ法制局の務めだ。
小松氏は法制局長官就任に当たって「政策ではなく、法のプロとして意見を述べる」と強調した。著書『実践国際法』では国際法の重視が如何に大事かを指摘している。集団的自衛権に関しては、強盗に殺されそうになった隣人を助ける「刑法で言う『他者のための正当防衛』であり」「法制度として常識的なものだ」と書いている。国連憲章は集団的自衛権を加盟国の「固有の権利」としていることも指摘する。
小松氏は歴代の法制局長官から相ついで厳しく批判された。阪田雅裕元長官は、日本国は憲法解釈の変更を否定していると論難した。小松氏は「政府は10年も前に(質問主意書で)解釈の変更は全く認められないというわけではないと答えている」と事実を示して同批判を退けた。
安倍氏は13年8月に小松氏を法制局長官に指名したあと迅速に事を運んだ。小松氏は病におかされ通院しながら国会答弁を続け、14年6月に亡くなった。安倍氏は共に闘った小松氏の死を悼みつつ14年7月に憲法解釈の変更を閣議決定し、集団的自衛権の行使を可能にした。15年9月、集団的自衛権の行使を可能にする平和安全法制を成立させた。
平和安全法制が成立した結果、日米同盟はより緊密に機能し始めた。同法なしには現在の緊迫する国際情勢の下で、尖閣諸島を守り、台湾有事に備えることは難しいと、およそ全ての専門家が言う。安倍氏の闘いが国民・国土を守る日本の力の発揮に直結している。
岸家、安倍家に伝わる精神
ここで想い出す。氏が高校生のとき、授業中に担当教諭が「1970年を機に安保条約を破棄すべきだ」という話をしたという。
「名指しこそしないが、批判の矛先はどうもこちら(自分)に向いているようだった」と安倍氏。
「わたしは、安保について詳しくは知らなかったが、この場で反論できるのは、わたししかいない。いや、むしろ反論すべきではないかと思っ」た。そこで日米条約の中の経済協力について質問した。教諭は顔色をなくし、話題を変えたという。
実は安倍氏は、そのとき新日米安保条約を殆ど読んでいなかった。しかし、「この場で反論できるのは自分しかいない。いやむしろ反論すべきだ」と直感し、実行した。自分の役割を本能的に感じ取り、戦闘モードに入ったのだ。自分が正しいと思うことのために闘う精神が安倍氏の中に培われていた。それは岸信介氏以降、岸家、安倍家に伝わる精神なのかもしれない。ただ、その闘う精神があって初めて内閣法制局という鉄壁を打ち破ることもできたと思う。
安保法制についてメディアの攻撃は強まり、民主党は左翼陣営と共に国会前でデモをした。山口二郎法政大学法学部教授はあの悪名高い台詞「叩き斬ってやる!」を叫んだ。安倍政権への支持率は13ポイント以上も下落した。その闘いをくぐり抜けていま、日本は「あの法律を整備していて本当によかった」という状況にある。
ここに記したのは安倍総理の闘いの一部にすぎない。安倍総理の功績は時がたてばたつほど評価されるはずだ。静かに深い感謝を捧げて国葬儀を迎えたい。