「 宗教心なき中曽根元首相の葬送 」
『週刊新潮』 2020年10月29日号
日本ルネッサンス 第923回
戦後日本の歴史に大きな功績を残した故中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬が今月17日、東京・港区のグランドプリンスホテル新高輪で営まれた。昨年11月の死去から約1年後の準国葬である。
亡くなった人をどれだけ心をこめて葬送できるか、どこまで深くその人の想いに共感できるかは、残された功績をどれだけ未来に生かせるか、私たちが未来の道をどう歩むかに関わってくる。その意味で合同葬は自民党の精神の芯を見せる機会でもあった。
武漢ウイルスの未だ治まらない中、雨模様も重なってか、広く寒い会場には空席が目立っていた。早めについて着席し、見渡すと、「中曽根行革」が旧来の陋習を破るべく高く旗を立てて社会を揺るがしていた当時、中曽根内閣に深く食い込んでいた兵(つわもの)たち、屋山太郎氏、橋本五郎氏、田原総一朗氏らの姿もあった。
中曽根行革の目玉のひとつが国鉄改革だった。私は旧国鉄を米紙東京支局の助手として取材したが、彼らの顧客軽視、劣悪なサービス、異常な労使関係、不潔極まる列車や駅施設は民営化で一変した。労働組合の中に革マル派系や中核派系の活動家も暗躍していた旧国鉄は闇を暴かれ、分割民営化されて現在のJR各社に生まれ変わった。
中曽根行革は、それを指揮した経団連の土光敏夫会長の質素な生活振りもあり、国民の熱烈な支持を得た。個人の栄耀栄華や働かない労働組合の既得権益のためにではなく、社会・国全体の水準の向上を優先し、国民のためになる事業体に生まれ変わらせようとする中曽根氏の改革努力を国民は後押しした。容易ではない大改革を成し遂げた氏の政治的手腕と叡智、理想追求の熱意を私は高く評価する。
外交における成果も大きい。それ以前は国際社会で存在感を示し得なかった日本が、一人前の国として認められ始めたのも中曽根氏の功績である。私は氏に、国際外交の基本を尋ねたことがある。氏はこう答えた。
「右手に禅、左手に円。日本の精神文化を高く掲げ、日本の強味である経済力と合わせて、国際社会に確かな地位を築きたい」
靖国神社を見限った
日本と日本人への信頼を外交の基礎に置き、氏は日本を背負って力を尽くした。日本人であることを誇りとして振る舞った。その面でも中曽根外交を大いに評価したい。
そう言いながらも、私には中曽根氏に対する拭いきれない残念な思いもある。戦後40年目の1985年8月15日、靖国神社に「公式参拝」と銘打って参拝し、中国共産党に非難されるや、以降、靖国参拝を完全にやめてしまったことである。この間の事情を氏は後に「靖国参拝をやめたのは、胡耀邦が私の靖国参拝を理由に弾劾されるという危険もあったからです」(『天地有情』)と説明している。
胡耀邦総書記は当時中国共産党内部の権力闘争で追い詰められつつあった。日本に理解を示した開明的な胡耀邦氏を守るためとして、中曽根氏は祖国日本に命を捧げた246万余の英霊が眠る靖国神社を見限ったことになる。中国共産党総書記の胡耀邦擁護か、日本国に殉じた人々の魂に感謝を捧げ、礼を尽くすための靖国神社参拝か。日本国としての優先順位は余りにも明白だが、中曽根氏はそれをとり違えた。
結論を言えば中曽根氏が靖国神社と訣別したにも拘わらず、胡耀邦氏は失脚した。加えて、以来、日本国の総理大臣の靖国神社参拝は中国によって常に非難される事態となり、首相は自由に参拝できなくなった。私はこの点を、中曽根氏の日本国に対する最大の背信だと考えている。
その点を厳しく指摘しつつ、それでも私は先述の功績も含めて中曽根氏の足跡に敬意を払うものだ。
正負両面ある中曽根氏のための合同葬は丁寧な形で営まれた。
中曽根氏の御遺骨は、前後を警護の車に守られ、孫の衆院議員、康隆氏に抱かれてホテルに到着した。自衛隊の儀仗隊に迎えられ、御遺骨をおさめた純白の清らかな包みは康隆氏から菅義偉総理を経て儀仗兵に手渡された。捧げ銃の儀仗兵に前後を守られ、御遺骨は瑞々しい生花で飾られた壇上に静々と安置された。
天皇・皇后両陛下、及び上皇・上皇后両陛下はいずれも特使を遣わし、一礼を捧げられた。秋篠宮皇嗣殿下、同妃殿下他、皇室の皆様方は献花なさった。葬儀委員長は菅首相が務め、歴代総理も三権の長も参列した。各国大使も列をなした。
この間、御遺骨は同じ手順を逆に辿って康隆氏の胸に抱かれ、再び前後を儀仗兵に守られながら車に到着。その一連の動きを会場の私たちは大スクリーンで見た。御遺骨が車に入ると、礼砲が三発鳴り響き、車は静かに滑り出した。
献花の「流れ作業」
式典の型はどこから見ても美しく整っていた。その意味で政府・自民党は誠を尽くしていた。にも拘わらず、会場で感じたのは合同葬全体に心がこもっていないということだった。
なぜだろうか。ひとつの理由は中曽根氏に捧げられた弔詞であろうか。とりわけ三権の長による弔詞は、型を踏まえたものではあろうが、いずれも短く、紋切り型だった。山東昭子参院議長の弔詞は107文字。これが参院の伝統なのだろうか。流石に忍びなかったのであろう。氏は中曽根氏の伴をしてフランスに出張したときの印象を冒頭につけ加え、人間として、また政界の後輩として、中曽根氏を悼んだ。
大谷直人最高裁長官の弔詞も同様だ。一分程度で読み上げられた短い弔詞は官僚的で、好悪も是非もない。言葉の響きは無機質で、この弔詞を一体誰が嬉しく思うのか、疑うものだ。
たしかに前例は大事かもしれず、世間は前例だらけだ。それを踏襲することの重要性も理解できないわけではない。されどされど、どこを触ってもプラスチックのようにツルンとしていて、掌には何も残らないようなこんな送り言葉でよいのかと強く思った。
心がこもっていないと感じたもうひとつの理由は、式典のどこにも宗教の香りさえなかったことだ。祈りのない式典だったと言ってよい。三権の長も総理経験者も、末席の私たちも皆、順番に白菊を献花したが、遺影に深々と一礼する人、チョコッと頭を下げる人、色々である。だが、献花の「流れ作業」で式典は終わる。
仏教、キリスト教、神道、何でもよい。その人の生と死を深く受けとめ、人間の存在を超える大きな力ゆえにその人に命が与えられたことに、限りない感謝を捧げる宗教心があってこそ、送ることの意味があるのではないか。人間の生死に対する深い感謝と祈りの心、宗教心を失ったかのような合同葬に、わが日本民族の未来に不安を感じた一日だった。