「 燃え尽きた滋氏、その遺志を継ごう 」
『週刊新潮』 2020年6月18日号
日本ルネッサンス 第905回
6月5日、横田滋さんが亡くなった。87歳。めぐみさんをその腕に抱きしめることなく逝ってしまったが、早紀江さんは、滋さんは神様に召され天国に行ったと確信する。
滋さんはどんなときも穏やかだった。ふとした会話のときも、向き合って時間をかけてお話を伺うときも、基本的に笑みを絶やさない。しかしその穏やかな表情とは対照的に、いつも必死だった。心の中はめぐみさん拉致に関するあらゆることがぎっしり詰まっていた。めぐみさんを救い出したいという想いで一杯一杯だった。ひょっとした拍子に一杯たまっている涙がこぼれ出してくるような、そんな大きな悲しみを抱えながら人生の全てを賭けて闘っていることが伝わってきた。だから何を質問しても、即座に何年何月何日の何時頃、というような形で、驚くべき密度の濃い答えが戻ってくる。
滋さん、早紀江さんにとって、めぐみさんがいなくなってから約20年―一言で20年というが、それは本当に気が狂うほど苦しみ悩んだ時間だったはずだ―がすぎた頃の1996年、早紀江さんは教会の祈りの会で特別親しかった教会の友人らと3人残り、「どうぞ神様、めぐみがどこにいるか、教えて下さい」と祈った。当時のことをインターネット配信の「言論テレビ」6周年の集い(18年)で早紀江さんが語っている。
「夕方帰宅したら、暗くなる中、電気もつけずお父さん(滋さん)がソファに座っていました。いつもと様子が違います。どうしたのと尋ねましたら、じっと何かを探すような目で言ったのです。めぐみちゃんが北朝鮮に連れて行かれて住んでいると、(元共産党国会議員秘書の)兵本達吉さんから連絡があったというのです」
早紀江さんは驚き、喜び、泣いた。だが、それは新たな苦しい闘いの始まりだった。
当時の政界は北朝鮮シンパ
日本政府は88年3月26日の参議院予算委員会で、梶山静六国家公安委員長(当時、以下同)が「昭和53(1978)年以来の一連のアベック行方不明事件犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と答弁したように、北朝鮮による日本国民拉致を正確に把握していた。しかしこの一大ニュースは「産経」と「日経」が小さく報じただけでメディアの関心は極めて低く、国民一般には伝わらなかった。
これより少し後のことだ。88年9月、有本恵子さんの母、嘉代子さんは拉致被害者の石岡亨さんの手紙で恵子さんが北朝鮮にいるとの情報を得て、地元神戸選出の社会党委員長、土井たか子氏を頼ったが門前払いされたと語っている。嘉代子さんの指摘どおり、社会党が社民党になっても、彼らは全く取り合ってくれなかった。金丸信氏全盛時代の自民党も同様で、当時の政界は北朝鮮シンパで溢れていたといってよいだろう。
その中でとりわけ酷かったのが社会党だが、北朝鮮と深い交流関係にあった同党副委員長の田辺誠氏が金丸氏と共に訪朝し金日成主席と会談した。梶山答弁から2年半後の90年9月だ。「金丸訪朝団」は、まるで拉致事件など存在しなかったかのような友好的訪朝に終始した。政界は拉致に関して全く動こうとしなかったのだ。
国民の命を守るという政治の最重要責務が置き去りにされる中で、横田夫妻ら拉致被害者の家族たちは悩みに悩んだ。政治が拉致事件を解決してくれないなら、世論に訴えかけるしかない。だが具体策となると家族間でも意見が分かれた。早紀江さんが語る。
「私と息子二人はめぐみの実名を出すと、北朝鮮が証拠隠滅でめぐみを亡きものにするかもしれないと心配して、実名公表に反対しました。主人は20年間真実は分からなかった、やっといま事実が出てきた、いま全力でやらなきゃだめだと。わが家は3対1に分かれましたが、結局皆で主人の決断に従うことにしました」
めぐみさんの命が危うくなるかもしれない、だが、いまは正面から闘うときだ。滋さんは大きな決断を下した。そのときの心情を滋さんは13年1月25日の「言論テレビ」で詳しく語っている。
「佐藤勝巳さん主宰の『現代コリア』ホームページの拉致被害者リストには、めぐみの名前が一番先に出ていました。新進党の西村眞悟議員がめぐみの件で国会に質問主意書を出す準備も始まっていると、AERAの記者から聞きました。私はそうした状況では実名公表しかないと決断したのです。すると(97年)2月3日に産経新聞が『少女拉致事件』としてめぐみを大きく取り上げました。同日夕刊で読売、朝日が、4日には毎日など大手新聞すべてがめぐみを報じました」
国民全員で支えたい
真面目さゆえに慎重さが先に立つ滋さんの大決断だった。横田夫妻がめぐみさんの写真を掲げて前面に立つことで弾みがつき、梶山答弁から約10年、97年3月に家族連絡会が結成された。「実名公表」は間違いなく拉致被害者救出を目指す家族会を支える基盤となった。家族会の人々の力は結集され、確実に日本政府を動かし、世界を動かした。
滋さんは拉致された日本国民だけでなく、日本よりはるかに多くの国民が北朝鮮に拉致されているにも拘わらず、韓国社会で徹底的に無視され、差別される韓国人の拉致被害者にも心を寄せた。その他の国々の拉致被害者救出も熱心に訴え続けた。
横田夫妻と食事をしたときのことを想い出す。滋さんは実に美味しそうにお酒を嗜む。私の好きな新潟の銘酒を冷やで勧めると、渇いた喉を潤すようにスーッと飲んだ。グラスを空け、杯を重ねる。早紀江さんが解説した。
「お酒なら何でも好きなんです。いろいろな種類を順ぐりに飲むんです。本当に仕方ないですね」
お二人と一緒に私は笑いこけた。冗談を言い、笑いを生み出し、闘いの日々の苦しさ辛さをまぎらわせてきた滋さんと早紀江さん。めぐみさんの弟の拓也さんも哲也さんも、その他の拉致被害者の家族の皆さん方も、希望を諦めないことで、心を保(も)たせてきた。拓也さんが語る。
「どんな形で拉致問題を解決するのか。私たちは北朝鮮に尋ねるのではなく、私たちが決めて、北朝鮮に要求すべきです。私たちの要求は拉致被害者全員の即時一括帰国です。これを安倍首相と共に実現する。その決意は揺らぎません」
政界で最も熱心に拉致問題解決に取り組んできたのが安倍晋三首相であり、政府は「オール日本」で取り組む構えだ。民主党政権3年3か月の拉致担当大臣は8人、一人平均5か月未満の人事とは対照的だ。家族会は安倍首相と共に、すべての拉致被害者の即時一括帰国という当然の要求を掲げ続ける。それを国民全員で支えていきたいものだ。