「製造業の土台、金型メーカーの危機」
『週刊新潮』’08年12月18日号
日本ルネッサンス 第342回
現在の日本で文句なしの世界一は、製造業のレベルの高さであろう。物づくりにおける力が突出しているからこそ、日本の経済は支えられている。優れた技術があるからこそ、中国でさえも、日本に一目も二目も置かざるを得ない。その製造業を支えているのが金型産業である。
かつて、10年も20年もの経験で磨かれた日本の職人の金型は他国の追随を許さなかった。いま、コンピュータの導入で多くの金型製造は1、2年の経験者でもこなせるようになった。それでも日本の金型は、世界でダントツである。
「特に超精密、大物、多工程、複雑な形状の金型は日本が得意とするもので、中国はいまでも、日本をはじめとする先進金型生産国から輸入せざるを得ません。特にプレス金型の技術はベトナムにもインドネシアにもほとんどありません。中国も遅れています。プレス金型は、コンピュータと匠の技の組合わせなしには完璧な仕上がりが難しく、彼我の差を私は20年と見ています」
こう語るのは伊藤製作所社長の伊藤澄夫氏だ。伊藤製作所にみられるように、追随を許さない金型技術をもつのは例外なく中小企業である。日本の産業基盤の支え手としての中小企業経営者は、日本の国としての在り方が彼らの企業自体の隆盛衰微に影響することを実感している。だからこそ、経済の背後にある政治への危機感はとりわけ深い。サラリーマン社長と異なり自分の会社と運命を共にする彼らは、一国の経済を、政治や歴史認識と無関係の次元で、単体で考えることは出来ないと実感している。そして強調する。日本の製造業にどれほど高度の技術があっても、政治の無策の下では、日本企業が生き残るのは容易でないと。
伊藤氏は三重県四日市市で父親の代からの金型会社を引きつぎ、日本に本社を置きつつ、マニラに進出した。日本の技術流出を加速する海外進出に踏み切ったのはなぜか。最大の理由が「ノアの方舟」の発想だった。つまり、このままいけば、海外の金型産業はすべて韓国や台湾勢力に取られてしまう。他方、日本国内で金型企業が生き残るのは難しい。日本経済の基盤は極めて深刻に蝕まれつつあり、日本が破綻する前に、海外の子会社に本社を買い取れるだけの力をつけておきたい、と考えたという。このあたりの事情は伊藤氏の著書、『モノづくりこそニッポンの砦』(工業調査会)に詳しい。
中小企業の海外進出は、資金や人材面でまさに命がけのリスクを負っての決断だと、氏は強調する。悲愴な覚悟をしてまで出るのは、前述のように、いまのままでは確実に金型産業が日本から消えていくという厳しい認識ゆえだ。日本の優れた製品の90%以上を支える金型技術が急速に失われつつあるからだ。
失われる「日本の優位」
マニラに出張中の氏が語る。
「かつて1万5,000社あった日本の金型メーカーはいま、1万1,000程、うち2割が来年末までに倒産、廃業すると思われます。理由のひとつは、物づくりに対する日本全体の価値評価の低さです。デジカメメーカーも液晶テレビメーカーも、日産もトヨタも、大企業は皆、貴重な匠の技の金型を日本で作らせ、海外の工場に持ち出し、より安い海外の金型メーカーを使って生産させます。オリジナルの金型を作る企業には利益は出ませんが、それを基に金型を作る海外のメーカーには利益が出ます。大企業は自社利益の拡大のために、日本の優秀な金型を買い叩くわけです。大企業のサラリーマン社長の方々は、5年や6年で利益を出そうとするあまり、日本の産業を支えてきた技術基盤を長期にわたって守ることなど考えないのです」
大企業はこれまでも、より安く製造するために、海外に日本の技を持ち出し、結果として日本とアジア諸国の差は急速に縮まった。中国などに進出する大企業は、さらに、伊藤氏が「彼我の差は20年」と語る日本の誇る超精密、大物、多工程、複雑な形状の金型やプレス金型の金型自体を図面などとともに、進出先に持ち込むケースが増えている。日本の金型企業の知的財産権はまったく守られず、彼我の差はさらに縮まり、日本の優位は早晩失われていく構図である。
日本の金型産業を追い詰めるもうひとつの要因は、日本政府の無策の対極にある、アジア諸国の国を挙げての取り組みである。
伊藤氏は、工場のあるマニラだけでなく中国、ベトナム、タイなど、自社工場のない国々の現場を見ることも欠かさない。実感するのは、各国政府が、産業の基盤としての金型に注目し、国力を挙げて金型技術育成に取り組んでいることだ。中国、マレーシア、タイ、韓国などは20年も前から大学や専門学校で、金型設計と製作の教育を行ってきた。日本にはそのような学科も専門学校もない。学生が入社してはじめて基本的な教育が始まる。国家ぐるみの教育と育成に、日本側は個々の企業の努力で競っているのだ。
「競争力」を殺ぐ規制
長期的な政策を欠くだけでなく、日本政府は中小企業の足を引っ張ってきた。税率の高さ、高物価、高賃金、無意味な規制などで、どんなに優良な製造業も、日本国内での継続は近未来に不可能になりかねないと伊藤氏は言う。無意味な規制のひとつに60年前の消防法がある。
不特定多数が出入りする百貨店や地下街など、特殊防火対象建物などに厳しい規制が必要なのは無論だが、金型工場にまで木造建築時代の古い法律を適用するのは馬鹿気ていると、氏は指摘する。
「金型工場は堅固なコンクリートやALC(軽量気泡コンクリート)で出来ており、漏電しても火は出ません。出るとすれば、工場内の油に引火した場合です。わが社の社員は火のついた油には絶対に水をかけてはならないことくらい、全員が知っています。水をかければ一層火は広がるばかり、唯一の消火法は化学消火剤の使用です。にも拘らず、消防法では1,400平方メートル以上の工場には屋内消火栓設備が必要で、10トンの用水と大型ポンプ、工場全体への配管、何本ものホース設置を義務づけています。そのコストは工場建設費のかなりの部分を占めます。政治、行政が強いるこの種の無駄な投資が日本の競争力を殺いでいます」
氏は、製造業の置かれた厳しく苦しい環境は、アジアや中国の追い上げよりも、むしろ日本国内の制度から生じる問題によるものだと語る。折しも、8日、民間信用調査会社の東京商工リサーチは今年の企業の倒産件数(負債1,000万円以上)が03年以来、5年ぶりに1万5,000件に上ると予測した。自民党も民主党も経済浮揚効果の疑われる個別の対策ばかりでなく、製造業を支える中小企業を元気づけるための施策を、即、実行すべきであろう。