「 皇族を冷遇する学習院の悪しき体質 」
『週刊新潮』 2019年5月2日・9日号
日本ルネッサンス 第845回
間もなく元号は令和と改められ、新天皇が即位される。新天皇・新皇后両陛下はどのような新しい時代を創られ、どのような天皇・皇后になろうとしていらっしゃるのか。
そう考えているとき、2001年3月出版のいささか古い本だが、『浩宮の感情教育』(以下『感情教育』小坂部元秀、飛鳥新社)を勧められて読んだ。
天皇となられる方や皇族には、単に学習院卒業という学歴が求められているわけではない。特別の心構え、帝王学を身につけているか否かが大事だといってよいだろう。果たして浩宮さまは親王時代にそのような教育を受けられたのか、学習院とはどんな学びの場だったのか、その疑問への手掛かりとして読んでみた。
著者の小坂部氏は1974年から97年まで学習院高等科に勤務し、76~77年の2年間、浩宮親王のクラスの主管(担任)を務めた。
同書の印象的な部分として学習院の父母会名簿に関する件りが序章にある。30歳前後の高等科のOBが小坂部氏とざっと以下のように会話している。
「『今でも父母会名簿の一頁目には、皇室関係の在学者が並んでいるんですか。高等科生の中には、あのページを破り棄てていた者もありましたよ』
『ああ、相変らずですよ』と私は応えた。
『“御在学”も相変らずですか』
OBは投げ出すように問いを重ねた。
皇族については、たとえば浩宮だったら
『浩宮徳仁親王殿下 高等科第3学年御在学』と表記されていた。
『そうですよ』、私は力なくうなづ(ママ)いた」
皇族の在学者名が記された一頁目を破り捨てる。「御在学」という丁寧語の使用に関して、小坂部氏は「そうですよ」と「力なくうなづ」く。皇室への拒否感、嫌悪感を感じさせる件りである。
ソ連に配慮して
クラブ活動や学級活動に関連して小坂部氏はこう書いている。
「学級活動だって、彼(浩宮親王)の存在によって、目にみえる、あるいは目にみえない制約を蒙ることになる。それらは浩宮自身にとってもまた他のクラスメートにとっても、決して好ましいことではない」
将来の天皇が同じ空間に存在することによって自ずと生まれる緊張感は、確かに制約となる面もあるだろう。だがそれは、生徒や教師にとって緊張を強いるものではあっても得がたい環境として前向きの評価も出来るはずだ。しかし、氏はこう続ける。
「それ(制約)は簡単に言えば、浩宮という存在が所与のものとして持つ特権性によるものだった。しかもその特権性は、人間浩宮にとっては、プラスにもマイナスにも働くもので、敢て言えばよりマイナスに働くものだと、私は思いこみはじめていた」
天皇・皇太子・親王を含む方々には特権もあるが、反対に、国民全般が当然のものとする権利はない。職業選択の自由や政治的発言の自由はないのである。「所与の特権」という斬り方が適切なのか。それが「人間浩宮にとって」マイナスだと一方的に解釈できるのか。疑問である。
小坂部氏の評価からは、担任教師としての愛情や生徒に真剣に向き合って育てようという気迫が感じられない。遊泳実習についても同様だ。学習院高等科の生徒はグループ毎に1キロから5キロを泳ぎ切るそうだが、小坂部氏はこう書いている。
「浩宮がこの夏どの程度の泳力だったか覚えていない。それはこの時私は主管でもなかったためだが、おそらく特に優れても劣ってもいない、中程度だったのだろう」
中等科の「卒業文集」で浩宮親王に触れた文章が一篇しかなかった件についても小坂部氏は、「浩宮の過不足のなさ」「地味な持ち味」「特権性を剥がせばその個性をどうとらえていいか判らず、そもそも最初から書くべき対象としての迫力を持っていなかったということだろう」と、突き放した無関心とでも言うべき評価である。ここにも、担任教師としての愛情を、私は感じとれない。
今上陛下は敗戦によって、選りに選ってバイニング夫人という米国夫人を家庭教師につけられた。それでも学習院ではご学友がいらした。浩宮親王には、特別なご学友は存在しなかったらしいことが本書から読みとれる。帝王学を教える人材もいない。これでどのようにして国民を統合する存在に成長できるのか、学習院の存在意義が薄れるのも当然だ。
小坂部氏は『感情教育』の終章近くで「天皇と天皇制」をめぐる論議の内、氏が最も興味を抱いている文学者の発言や文章を列挙した。その筆頭が東京帝国大学総長で、ソ連に配慮して全面講和を主張した南原繁である。南原が昭和21年12月に貴族院本会議で行った演説を、「天皇の『人間宣言』と新憲法の公布をめぐっての」「記念碑的な演説」と持ち上げている。
冷淡と言うべき視線
南原の演説はその同じ年の1月1日に、昭和天皇が出された詔勅に関してだ。昭和天皇は後に同詔勅で国民に伝えたかったのは、メディアが報じた「人間宣言」という要素よりも、民主主義や自由などの善き価値観は敗戦によって外国から教えられたと国民は思い始めているが、そうした精神はずっと前から日本国に根づいていて、明治天皇が発布した五箇条の御誓文がそれであるとの主旨を語っている。南原の主張が記念碑的な立派なものだという評価はどう考えてもおかしい。
小坂部氏はまた、中野重治の小説『五勺の酒』は「恥ずべき天皇制の頽廃から天皇を革命的に解放すること、そのことなしにどこに半封建性からの国民の革命的解放があるのだろう」という発想につながると特記している。
詩人の三好達治の『天皇をめぐる人々』からは次の部分を説得力のある記述として抽出している。
「所詮は天皇陛下なんかはどうでもいいので、天皇制が現在あるが如くに未来永遠に存続しようと、神さまが人間に転籍なさつたお布令は出たがその実際がどうであらうと将来どのように逆戻りをしようと、しまいと、一切まづ問題に関心がない、といふのがこの国の文壇人―といふ特殊な人種一般の心底であらう」
小坂部氏の想いが那辺にあるかが明らかになるが、氏は「あとがき」でも書いている。「学習院高等科で浩宮のクラス担任となった時」「〈天皇家〉という存在に、一種の異和感を抱いていた」と。
帝王学どころか、天皇陛下や皇室などどうでもいいという価値観への共鳴が先に立つ。このように冷淡と言うべき視線の中で、間もなく即位なさる皇太子殿下は学ばなければならなかった。非常に気の毒なことだと感じざるを得ない。国民全体のあたたかい気持ちで支えずして、皇室が存続するはずはないだろう。