「 「中国は世界一」の幻想を脱した二人 」
『週刊新潮』 2018年9月6日号
日本ルネッサンス 第816回
題名を見て思わず笑い、中身を読んで慄然とする。いま、盛んに日本に微笑み、「日中友好」を印象づける習近平国家主席の甘い罠に誘われ、前のめりになっている日本の政治家や経営者全員に読んでほしい警告の書が、『私たちは中国が世界で一番幸せな国だと思っていた』(石平、矢板明夫著、ビジネス社)である。
周知のように中国人だった石氏は天安門事件などを機に中国への疑問が決定的になり日本国籍を取得した。矢板氏は中国残留孤児2世で15歳の時に日本に引き揚げた。慶應大学国文科で和歌を学び、松下政経塾、中国社会科学院などを経て産経新聞の記者となった。
一定の年齢まで中国人として育ち中国を見詰めた両氏の中国理解と、両氏が打ち出す対中政策は、日本の中国研究者のおよそ誰よりも本質を突いている。
それにしても、何という書名か。悪い冗談だと思って手に取ったが、両氏は本当に自分たちが中国に生まれ育って世界一幸せだと信じていたのである。人が餓死するのを目の前で見ても、ゴミ箱から拾った毛沢東の写真が載った新聞紙で大根を包んだだけのお婆さんが、「反毛主席」の大罪で公開銃殺されても、中国は世界一素晴らしいと信じきっていた。中国は世界一と幼い頃から繰り返し教え込まれ、情報がコントロールされている国家では、いとも簡単に人々は騙される。
お婆さんの命を奪った公開処刑は娯楽のない民衆にはストレス発散の好機だったという指摘も恐ろしい。文化大革命の頃は、共産党創立記念日など祝日の前日には全国の大小都市で必ず公開処刑が行われ、石氏のいた成都では50人の処刑をローマのサーカスを見る形で群衆が見物した。
「殺人ショーを見た翌日は祝日です。国慶節には特別にひとり0.5キロの豚肉を供給されました。(中略)0.5キロの豚肉を口に入れて『ああ、これで幸せ』という世界だったのです」と石氏は語っている。
中国当局の色メガネ
毛沢東の死で文革が終わり鄧小平の時代になると、公開処刑は一旦中止された。だが矢板氏はそれが習政権下で復活していると指摘する。現在の中国のおぞましさである。
矢板氏は幼い頃から国際政治に興味があったという。1979年のイランの米大使館人質事件、その翌年のイラン・イラク戦争、80年のジョン・レノン射殺事件などを、氏は中国で見ている。中国当局の色メガネを通しているため、中国共産党と同じ見方になる。
それは「どんどん中国が強大化する一方で、米国が駄目になっていく」という感覚だったという。少年だった矢板氏にそう感じさせたニュースの送り手、中国共産党のエリートたちは、まさにより強くそのように理解しているはずだと氏は感想を語っているが、恐らく正しいのであろう。
日本に引き揚げた矢板氏は中国で抱いていた見方を修正できた。しかし習主席を含む共産党幹部はずっとそのままなのではないか。その「自信」が米国との軋轢の背景にあるのではないか。
オバマ前大統領が5年前に、米国はもはや世界の警察ではないと宣言したときから、中国の侵略行為は顕著になった。南シナ海の環礁を奪い、軍事拠点化した。フィリピンの訴えを仲裁裁判所が全面的に支持し、中国の領有権を否定したとき、判決を「紙クズ」だと斬り捨てた。トランプ大統領の「アメリカ第一」を逆手にとり、中国こそが「民主主義」「自由貿易」「環境重視」の旗手だと宣言し、米国に取って代わる姿勢を強調した。昨年秋の共産党大会では、世界に君臨するのは中国だと事実上宣言した。それが現在進行中の米国との貿易摩擦につながっているのではないか。
米中の貿易戦争をきっかけに、8月の北戴河会議では習氏の対外強硬路線への批判が起きた。これ以上の摩擦回避のために習氏は米国に対し、したたかな妥協策を繰り出すのか。展望は読みにくいが、中国共産党幹部の中に、米国は衰退する、中国は強大化する、時間は中国に有利に働くとの確信があるであろうことは肝に銘じておかなければならない。この種の誤解ほど危険なものはない。
中国経済が確実に悪化し、一帯一路に代表される大戦略もほころび始めた中で、習氏にとって経済回復の手立ては全く見えていない。
経済回復が不可能なら、民族主義が次なる求心力にならざるを得ない。それは自ずと対外拡張路線につながる。石氏は、習氏が「国内矛盾を克服するためにも、戦争を仕掛ける可能性がある」と指摘し、矢板氏は、台湾がターゲットだと断言する。台湾奪取のシナリオのために、習氏は、専門家をロシアに派遣し、2014年にロシアが如何にしてクリミア半島を奪ったか、詳細に研究中だと明かす。
台湾、沖縄が狙われる
サイバーテロから始まり、フェイクニュースを流し、種々の工作で敵側を混乱に陥れる。クリミアで親ロシア勢力に蜂起させ、政権を取らせる。間髪を入れずにロシア軍が出兵する。プーチン大統領のシナリオを参考に、台湾を窺う習氏。20年から25年の間に何らかの行動を習氏は起こす、そのための準備がすでに台湾ヤクザを利用して始まっている、との矢板氏の明言を正面から受けとめるべきだ。
台湾の後には沖縄が狙われる。中国の沖縄に対する目論見は日本からの独立だ。沖縄を中国の朝貢外交に組み入れ、日本を牽制するためだと矢板氏は説明する。沖縄独立論を唱えるのは少数の日本人だ。彼らと中国側の連携で、中国や国連で「琉球独立」に関するシンポジウムや会見が行われていることを、本欄で私も報じてきた。沖縄独立論者がごく少数派だからと言って過小評価していてはとんでもないことになる。
両氏は、中国にとっての日本を北京ダックにたとえている。皮は餅皮に包み少しタレをつけて、肉は炒めて、骨はスープにして食べ尽くす。三度満喫できる。その心は、第一に中国共産党は日本と国民党を戦わせて政権をとった。第二に改革開放で日本の資金と技術で中国の経済成長を支えさせた。最後に愛国反日教育を徹底して国民を束ねた。骨までしゃぶられてきたこと、現在も危うい情勢であることに、好い加減気づくべきだろう。
両氏の対話は米中の究極のディールにも及ぶ。米中間で台湾と北朝鮮の交換、即ち北朝鮮の核とICBMをやめさせる代わり、中国の台湾侵攻に米国は介入しないというものだ。
まさかと考えてはならない。最悪の可能性をも頭に入れた上で、日本は自力を強化する以外に生き残れない。北朝鮮が実質核保有国になる場合を想定して、日本も核武装の是非まで含めた議論をすべきだという主張には、十分正当性があると思う。