「台湾総統選“国民党圧勝”は日本の危機」
『週刊新潮』'08年4 月3日号
日本ルネッサンス【拡大版】 第307回
国民党・馬英九氏が大勝利した台湾総統選挙は異様に盛り上がった。対立候補の与党民進党・謝長廷氏は台北中心部で選挙運動の最後の瞬間まで訴え続けた。
「中国は、台湾は中国の一部だと主張している。私が敗退すれば、中国の主張は世界に浸透する。私が当選すればそれはなくなる」
「逆転勝ち!」の黄色の文字を染め抜いた揃いの黒地のTシャツを着た群衆は涙ぐんで叫び返した。
「勝てる!」「逆転出来る!」
当初、馬氏に支持率で大きく水をあけられていた謝氏は、ラサ暴動に際しての中国のチベット弾圧などを追い風として、ギリギリ追いついたと、多くの支持者が考えた。彼らは台湾語の歌「あなたは私の宝物」を熱唱、大群衆はひと塊りとなって共鳴し、台湾人の勝利の予感に打ち震えた。それは日本で見かけたことも体験したこともない、尋常ならざる熱気だった。
翌日の投票結果は、しかし、民進党の大敗だった。勝利した国民党の馬英九氏は午後7時半、当選大集会に姿を見せた。打ち上げ花火の連打と、パーンという独特のサッカーホーンが鳴り響く中、馬氏がステージに上がると、耳をつんざく大歓声が湧き起こった。
「これは、私個人の勝利ではありません。国民党の勝利でもありません。台湾人全体の勝利です!」
馬氏が言葉を区切る度に大歓声が波打って広がる。よく見ると、馬氏は防弾チョッキに身を包んでいる。演台には防弾ガラスが嵌め込まれている。
「これは、進歩、改革開放、前進を求める人々の勝利なのです! 台湾の民主政治の勝利なのです!」
馬氏の感激した声が防弾ガラスの向こうから響き、群衆は応えた。「勝った! 勝った! 馬英九!」
熱狂と防弾チョッキと民主主義。台湾語と北京語と客家(ハツカ)語。群衆の頭上で、凄まじい熱狂が渦を巻いた。
中国が武力行使でチベットを鎮圧するなか、台湾人はなぜ、親中派と言われてきた馬氏を大勝させたのか。要因は2つに大別される。①陳水扁政権の経済政策と腐敗への不満、②馬氏の経済政策と中国との距離のとり方の絶妙さだ。
民進党候補者の謝長廷氏への賛否以前に、多くの有権者が陳政権に怒っていた。その1人、旅行代理店経営の林民勇氏(55歳)は長年民進党を支持してきたが、今回は国民党に票を入れた。
「陳水扁に2回も投票したのを後悔しています。不況で仕事はない。物価も上がる。そのうえ、不正と汚職です。チベット弾圧で中国の怖さはわかったけれど、これ以上、中国との関係を悪化させる民進党は支持したくないのです」
他方、馬英九氏の勝因のひとつは経済に関してバラ色の夢を振り撒いたことだ。3兆9,900億元(約13兆円)にのぼる「台湾を愛する12項目建設」を掲げた。中国と「共同市場」を構築し、経済を活性化すると約した。学生には奨学金の返還を求めない措置を講ずると言い、旅行業者には、三通(中台間の通信、通商、通航の直接開放)で空と海の直行便を定期化し、年間360万の中国人観光客を呼び込んで商売を繁盛させると呼びかけた。
総統府の国家安全会議諮問委員の林成蔚氏は言う。
「馬氏は国防重視、国民重視、経済の活性化と言ってバラ色の夢を公約しました。けれど、財源はどこにあるのか。中国との共同市場は、中国経済の台湾支配に他なりません」
林氏のような冷静な意見は、しかし、経済活性化への期待で掻き消され、中国への警戒心は票につながらなかった。
中国の深謀遠慮に乗った馬氏
馬氏は中国への厳しい姿勢を見せることで、親中国派のイメージを払拭した。
一例が中国の温家宝首相が3月18日、「チベットも台湾もどちらも統一、主権と領土保全にかかわる問題だ」と述べたときだ。馬氏は「極めて尊大で、横暴で、失礼だ」と即反論した。従来の国民党ではあり得ない烈しい反応だった。さらに馬氏は「台湾の将来は台湾の2,300万人が決める」「(チベット問題について)北京五輪のボイコットもあり得る」とさえ述べた。
選挙戦終盤にかけての、馬氏の対中国゛強硬″発言は民進党よりも尚民進党的だった。台湾の自主独立性を繰り返し強調する馬氏に、人々は氏が総統になったからといって、中国に呑み込まれ統一されることはないとの安心感を得たのだ。
林成蔚氏は、馬氏の台湾人意識の強調は「民進党政策の真似」であり、その「真似」こそが、馬氏当選の大きな要因だったと分析する。
「馬氏大勝といっても、民進党は42%を取っています。自分は何者かとの問いに『自分は中国人』と答える台湾人は7%以下に減っています。国民党支持者の中にさえも台湾人意識は広まっており、台湾人意識が大きな潮流となっているのです。馬氏はこの点を自覚し、台湾人意識を発言に反映させた。民進党を真似たのです。この選挙で勝ったのは、民進党が掲げてきた台湾人意識、台湾人の自決主義だったのです」
馬氏勝利の要因として、もう一点見過ごせないのが米中両国の支援だ。国際政治の専門家、田久保忠衛氏は、米中両国は、台湾に、独立を言わせない、現状を維持させる、の2点で合意したと指摘する。
米国政府は早い段階から民進党につれない態度を取り続けた。陳水扁総統の身内から次々と汚職絡みの事件が起き、米国の信頼は崩れていった。台湾名での国連加盟の是非を問う住民投票に、ライス国務長官は苛立ち「反対する」と明言した。台湾独立を目指した動きは中国を刺激し、衝突に発展しかねない。現に米国は総統選挙に備えて、空母ニミッツとキティホークを台湾
海域に展開させ不測の事態に備えた。
「米国はいま、これ以上血を流すことを嫌っています。そのため、民進党の謝長廷の勝利を望まず、馬英九を支持したのです。馬氏は統一しない、独立しない、武力行使しないの『3つのノー』を掲げ、現状の枠内で中国との融和策を進めようとしています。それは米中両国にとって好ましい選択なのです」と田久保氏。
中国の当面の目的は、独立志向が鮮明な民進党を敗北に追い込むことだった。そのための深謀遠慮が、台湾問題に介入せず静かに見守る姿勢を保つことだった。馬氏が以前よりもずっと民進党的な政策に切り替えることが出来たのは、中国が介入を慎む静かな姿勢をとったからだ。馬氏は、中国の深謀遠慮に乗ったわけだ。斯くして中国は第一の関門を無事に通過した。
太平洋分割統治を目論む中国
米中両国が第一段階で支援した馬英九氏は、どのような政策を展開するのか。3月23日、次期総統として初めて海外メディアと会見した氏は、注目のチベット問題で慎重な発言に終始した。「重要なのは人権問題だ」「台湾はチベットや香港とは異なり主権国家である」と強調はしたが、チベットの主権問題には踏み込まなかった。選挙キャンペーン中の強い中国批判は所詮、ポーズだったのか。他方、早い段階での中国訪問、和平協定の締結、経済協力を突破口とする中台関係の改善などは強調した。
国民党副主席の江丙坤氏も、何よりも経済の強化が重要で、中国との摩擦や戦争は決して起こしてはならない、和平協定はそのためだと強調する。だが、経済面での協力や和平協定でいつまで現状維持が図られるのか、台湾の主権を守り続けられるのか、不明な要素は余りにも多い。馬政権がどの方向に進むかの判断は、まだ早すぎるが、李登輝前総統は、馬英九氏と米国との関係の深さに注目すべきだと指摘する。
「馬さんの米国の永住権(グリーンカード)にも見られるように、彼は米国と特別な関係にあると言ってよいでしょう。中共にとってはその分、馬さんが問題になる可能性もあります」
つまり、馬政権の下で、台湾が中国に易々と呑み込まれることはないと分析しているのだ。
馬氏への米中両国の影響を考えるとき、米中両国間にいま生じつつある奇妙な連携に目を向けざるを得ない。中国問題専門家の平松茂雄氏が語る。
「3月13日、駐日米大使のシーファー氏が日本の記者団に語りました。『中国軍幹部がキーティング米太平洋司令官に、米中で太平洋を分割管理してはどうかと提案したが、司令官が取り合わなかったのは正しい対応だった』と。この発言の意味を、我々は考える必要があります」
問題の発言は、3月12日、キーティング司令官が米国上院軍事委員会の質問に答える形で明らかになった。太平洋司令官として初めて中国を訪れたとき、中国軍幹部が真面目な顔で「我々が空母を保有するとき、君と俺で合意しようじゃないか」ともちかけたというのだ。中国軍幹部はさらに「君らがハワイ以東、我々はハワイ以西を取る。情報を共有し合えば、君らはハワイ以西に海軍を展開させる面倒がなくなる」と続けた。
「たとえ冗談にしても、これは中国人民解放軍の戦略的視点を示すものと考えるべきだ」とキーティング司令官は語った。
中国が太平洋の分割支配を戦略として考えているからこそ、こういう発言が出てくるのである。これは決して冗談などではなく、中国の長期的な目標そのものだと考えるべきだ。
田久保氏はこの件に関連して、1996年に中国が核実験したときの主張を思い起こすべきだと強調した。
日本外務省が抗議すると中国側は開き直って言ったのだ。
「誰が何を言っても強くなるために核実験をする。弱い中国が何をされたか、日本は知っているはずだ」
米国も繰り返し中国に問うてきた。今、中国に脅威を与える国は存在しないにもかかわらず、なぜ、軍事予算を膨張させ続けるのかと。中国が答えずとも、理由は明らかだ。国家が強い軍事力を持てば、相手は黙って従うのが世界の現実だからだ。外交とはそういうものだ。
日本孤立化への道
平松氏はこう語る。
「米国は、太平洋分割支配の話に、深いメッセージを込めていると思います。もし、中国が台湾を支配し、日本列島から琉球列島、台湾、フィリピン、インドネシアを結ぶ第一列島線に含まれる海を支配し、さらに太平洋を米国と二分することになれば、米軍は極東に主力を置く必要はなくなり、海兵隊の一部と横須賀にキティホークを置いて引き揚げるでしょう。そのとき、日本は中国の脅威の最前線にひとりで立つことになる。困るのは日本ですよ、と言っているのではないか」
この種の米中連携が実現すれば、折角の台湾自決主義も、あえなく潰される。現に台湾と中国の軍事バランスは、台湾優位から中国優位へと逆転しつつある。10年もすれば、中国の凄まじい軍事力増強政策によって、決定的な差が生まれる。
「そのとき、アジアは中国に席捲され、日本の選択肢は中国の言いなりになるか、対決するかの二者択一になります。それほどの覚悟が必要なのです」
平松氏は日本人の台湾及びアジア情勢への無関心こそが問題だと警告する。
鳥の目でアジア情勢を見ると、中国に吸引されていく構図が見えてくる。その筆頭が馬氏と国民党を選んだ台湾である。馬氏が即座に中国寄りの政策へ大胆に踏み込むことはないと見られているが、中台間の距離が縮まったのは確かである。
次が豪州である。昨年12月に就任した労働党のケビン・ラッド首相は中国語と中国史を専攻した中国通で、娘の夫は中国人、息子は中国に留学した。
「豪州議会で、ラッド氏は首相就任前の外遊費用を中国から貰っていたのではないかと追及されています。彼はまた、3月27日から4月13日まで、18日間の長い外遊に出るのですが、米国、欧州、中国を回り、日本に立ち寄る予定はありません。明らかに、南太平洋は親中派に固められているのです」と田久保氏。
じわじわと中国による包囲網が形成され、パックス・アメリカーナの枠組みが崩れ、パックス・シニカの枠組みが出来つつある。
それを打ち破り日本の活路を開くことが、福田康夫首相の役割だ。米中接近を凌駕する、緊密な日米関係を築かなければならない。
しかし、福田首相では、日米の連携プレーなど、考えられもしない。首相は昨年11月に訪米して、ブッシュ大統領と1時間、会談した。12月には訪中して、4日間をすごした。どの国をより信頼し、関係を密にすべきか解っていないのだ。日本自身が解っていなければ、米国が同盟相手としての日本を信頼出来るはずもない。比較的、日本に好意的なブッシュ政権でさえ福田政権下の日本には疑念を持つだろう。次期政権が民主党政権になれば、米国は中国に接近し、日本は米中の狭間で力を殺がれていく。
台湾の危機はまさに日本孤立への一里塚なのだ。