「 歴史戦争に勝つには真実しかない 」
『週刊新潮』 2017年1月19日号
日本ルネッサンス 第737回
今年、日本が直面する大問題のひとつに、中韓両国の国民が第2次世界大戦中に強制連行され苛酷な労働を強いられたとして、日本企業に個人賠償を求めて起こす訴訟がある。
昨年12月6日、中国人27人が、北京の第三中級人民法院(地方裁判所)に、第2次大戦中の強制動員と苛酷な労働に対して、謝罪と1人100万元(約1600万円)の賠償を求めて鹿島を訴えた。中国における鹿島への訴えは初のケースだ。
中国が訴えを受理するか否かはまだわからない。受理なら、それは中国共産党政権に、日本追及の明確な意図があると考えてよいだろう。中国には三権分立の思想も制度もなく、政治が司法の上位に立つため、裁判になれば鹿島の勝ち目は少ないと思われる。
中国ではすでに同様の理由で三菱マテリアルが訴えられ、昨年6月1日、同社は裁判を避けるため、原告の一部を残して和解に応じた。三菱マテが妥協し、謝罪し、資金の提供などに応じた和解に、中国人側代理人は「心からの敬意」を表し、中国人原告団を支援した日本の左翼系団体は「強制労働問題の解決の模範」と絶賛した。つまり、日本側から見れば完全な敗北と言える内容だった。
強く押せば日本側は屈する。三菱マテの和解は中国側にそう確信させたであろう。鹿島を訴えた中国人原告団の代理人、康健弁護士は、「鹿島訴訟の原告の1人は三菱マテの和解を知って名乗り出た」と語っている。恐らくもっと広がっていくであろう中国人による対日企業訴訟は、三菱マテの和解が端緒なのだ。
三菱マテの裁判で、中国人原告の代理人をつとめた平野伸人氏が、中国での訴訟は、実は韓国での訴訟から学んだ結果だと分析しているように、対日企業訴訟で中韓両国は緊密に連携している。
日韓間の問題は、1965年の日韓基本条約によって全て解決済みである。日中間では72年の日中共同声明で個人の請求権も含めて解決されている。にもかかわらず、韓国では日本企業に対する訴訟が相次ぎ、韓国最高裁も2012年に個人の請求権はまだ有効だと判断した。結果、15年4月21日までに三菱マテを含む日本企業72社に未払い賃金など、1人1000万ウォン(約97万円)を求める裁判が起こされた。
4代にわたる怨恨
日本企業を訴える背景には、戦時中に日本が労働者を強制連行或いは強制動員し、奴隷的労働を強いて、逃亡させないように監視していたなどという主張がある。だがそのような主張を一蹴し、真実を知る一助となる本がある。朝鮮人の鄭忠海(チョン・チュンヘ)氏が1990年に出版した『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版)である。著書は朝鮮半島の人々の日本観の厳しさを含めて、多くを教えてくれる。
鄭氏は19歳でソウルのキリンビールで働き始め、翌年、福本コンクリート工業所に就職した。結婚し2児の父親となった氏は、1944年の冬の「徴用令状」で「強制動員」された。同年12月11日に広島の東洋工業に配属されたとき26歳、約10か月を日本で過ごし、原爆を免れ帰郷した氏が、日本滞在を振りかえったのがこの『手記』だ。
全篇を通じて伝わってくるのは、氏の祖国愛と、その裏返しとしての日本に対する強い敵愾心である。1945年3月に入ると東京大空襲があり、その後大阪も焼き尽された。そのとき氏は書いた。
「我々(朝鮮の徴用工)が無言の中に密かに願っていた大空襲だ」「期待して見るだけだが、燃やしてしまえ、早ければ早いほどよい」「東京がみんな焼けてしまったり、大阪がなくなったということは我れ関せずであるが、痛快というばかりだ」
空襲で無数の無辜の民が犠牲になったことを「哀しい」としながらも、「対岸の火事」だと言い切る。氏の日本観は「親子4代にわたる怨恨」であり、氏の著書が出版された90年、戦後45年になっても怨恨は晴れないと書いている。このように厳しい対日観を有する人物が「強制動員」について書いた内容は、逆の意味で大きな驚きである。
家族とは再び生きて会うことはないと覚悟してやってきたが、東洋工業の受け入れ体制は想像以上に手厚かった。釜山港から博多港に、博多駅から列車で広島に向かう鄭氏のそばに「会社の野口氏が来て座り」「長距離の航海、長時間の汽車旅で非常にお疲れでしょう」と労(ねぎら)った。
軍が、抵抗する人々を殴りつけ、拘束し、或いは逃亡防止で厳しく監視して引っ張ってくるという、中国人や韓国人、彼らを支援する日本の左翼系の人々が主張する強制連行のイメージとは全く違う。
「連絡船に乗ってから、会社側では我々に不便がないようにいろいろ気遣ってくれていた。好感を得たいためか、我々には思いがけないサービスをしてくれた。いずれにしてもありがたいことだ」とも氏は書いた。
向洋(むかいなだ)の東洋工業では、海岸近くに木造新築2階建の寄宿舎があり、20畳の部屋に徴用工用の絹製の清潔な寝具が10人分用意されていた。
日本企業の公平さ
食事は「思いのほか十分で、口に合う」だけでなく、集団生活の中で、彼らは夕食後に度々宴会を開いた。みかんやネーブル、なまこやあわび、さらに酒まで出た。一方仕事は「日課が終わった後には何もすることがない」といった状況で、遂に鄭氏は「何にもならない訓練だけ」が続くと贅沢なぼやきをもらしている。
日本企業が徴用工に極めて真面目に向き合っていたのは明らかだ。東洋工業は鄭氏らに第1工場から第11工場まで全体を見学させ、工場で生産する99式小銃を完成させるのに、鄭氏らの作る部位がどのような意味と重要性を持つかを理解させようと努めている。朝鮮人に対する差別意識などうかがえず、日本人と全く同じ扱いではないか。
差別がないといえば、工場で働く女子挺身隊の若い女性たちも同様だった。日本の若者たちが出征していった中で、一群の若い朝鮮人男性たちが一躍人気者となっている。鄭氏は2児の父でありながら日本人女性と恋に落ちた。女性の側にも差別意識がなかったということであろう。
軍と企業の差も鄭氏は独特の視点で描き出している。1945年3月のひと月間、氏は軍令によって奈良県の西部国民勤労訓練所で教育を受けた。この間は食事の量も質も「死なない程度の最低」で、規律は厳しく、勝手に外出してあわびや酒で宴会するなど許されなかった。日本軍の規律の厳しさとともに、彼らを社員として受け入れた日本企業の待遇の公平さが、巧まずして鮮やかに描かれている。
いま私たちが中韓両国民、日本人、そして世界に知らしめていくべきはこうした真実の数々である。真実の力をもって、中韓の対日企業訴訟に打ち勝つ決意が大事である。