「 日露交渉、一本とられた日本 」
『週刊新潮』 2016年12月29日、2017年1月5日号
日本ルネッサンス 第735回
柔道流に表現すれば、日本は一本とられたということだ。
12月15、16の両日、山口県長門市と東京で行われた日露首脳会談には辛い点をつけざるを得ない。平和条約締結にも北方領土の帰属問題にも進展は見られないまま、経済プロジェクトが先行する形になった。
日本の「敗北」の背景には、都合16回の首脳会談と並行して生じた国際政治力学の大変化もある。それがロシアに有利な、日本に不利な世界情勢を作り出した。日本に不利なタイミングで「平和を旨とする国家」日本と、軍事力、謀略、サイバー攻撃をはじめ、あらゆる力を駆使して目標を達成する「力治国家」ロシアが交渉すれば、それは今回のような結果につながるだろう。
日露関係を揺さぶる要素としての国際政治は、一体どのように変化したのか。2014年3月、クリミア半島を奪ったプーチン大統領は、国内では90%の支持を得た一方で、国際的には孤立した。米欧の経済制裁は原油安で苦境に陥ったロシアの困窮をさらに深め、プーチン氏は対中協力の中に活路を模索した。中国がロシアにどれだけの経済的メリットをもたらしているかは大いに疑問だが、プーチン大統領は中国を「特権的戦略的パートナー」と呼び、対日、対米カードと位置づける。
ロシアが国際的孤立を深めていた中での日本の接近は、プーチン大統領にとって願ってもない投資や技術協力の到来に思えたことだろう。日本側の領土問題解決への切望と対中国でロシアカードを持ちたいという思惑を見据えた上で、プーチン大統領が安倍首相の働きかけに応じた背景には、ロシアの孤立があったことは否めない。
しかし、ドナルド・トランプ氏の登場で情勢は変化し始める。トランプ氏は大統領選挙戦の最中からプーチン氏を前向きに評価しており、プーチン氏はトランプ氏を勝たせるためにサイバー攻撃を展開した、とオバマ大統領が事実上、断定した。「ワシントン・ポスト」紙もロシアはサイバー攻撃で選挙に干渉したと、中央情報局(CIA)が結論づけた旨、報じた。トランプ氏側はCIAを非難し、次期大統領と国家機密を一手に握るCIAとの間に亀裂が入りかねない状況が生じている。
秘密警察的手法
経済的にも軍事的にも力を落としているロシアが新しいコミュニケーション手段を用いて行った情報戦は、アメリカの指導者選出に影響を及ぼし、アメリカ中枢の権力構造に亀裂を生じさせようとしている可能性も見てとれる。ネットやSNSなどの情報伝達手段を用いれば、どんな小さな国でも、大国の政治を揺るがし、動かすことができる。プーチン氏のロシアは衰えたりといえども、情報戦においてはまさに非情かつ秀でた国だ。17年は欧州の少なからぬ国々で選挙が行われる。同種のサイバー攻撃を、世界の政治を動かしたいと企む勢力は必ず実行すると考えるべきだ。秘密警察的手法で各国の政治が操られかねない時代に、すでに私たちは入っている。いま眼前で起きつつある国際政治の変化は、近未来において予測不可能な大地殻変動に結びついていくのではないか。
トランプ氏は、石油開発事業を通じてプーチン大統領と20年以上の交流があるレックス・ティラーソン氏を国務長官に指名した。ロシア側は「これ以上の人事はない」と歓迎したが、氏はクリミア併合を理由とする米欧諸国の対ロシア経済制裁に強く反対した人物だ。
トランプ政権のもうひとつの人事、国家安全保障担当の大統領補佐官に起用されたのは元国防情報局長官で退役陸軍中将のマイケル・フリン氏だ。氏は、イスラム過激派はアメリカに世界戦争を挑んでおり、ロシアがイスラム過激派の脅威と戦うのであれば、アメリカのパートナーになり得るとの考えを明らかにしている。
1月に発足する新政権では、大統領、国務長官、大統領補佐官の少なくとも3名が親ロシア派である。ロシアを最も警戒すべき脅威と位置づけていたオバマ政権の対極に、トランプ政権はある。プーチン大統領にとって僥倖と呼ぶべき変化がアメリカに生じたことは、対ロシア制裁網打開の突破口と位置づけられていたであろう、日本の重要性を目に見えて低下させたのではないか。領土問題で日本に譲る必要のない国際環境が出来上がったことは、プーチン大統領の余裕につながったか。
12月15日、シリア最大の都市アレッポをロシア軍がアサド大統領の軍と共に反体制派から奪い返したが、重要な商業都市の奪還は中東における主導権確立につながるものであり、プーチン大統領は自信を深めたことだろう。
このように、日露首脳会談の日程が近づくにつれてプーチン氏有利の国際情勢が生まれた。領土問題は存在しないと考えるプーチン大統領がますます強硬になり得る理由である。
だが、国際情勢は一定でも不変でもない。必ずまた変わる。何より、ロシア経済は全く回復しておらず、ロシアの外貨準備は17年にも涸渇すると見られる。
軍事費も6位に
世界最多の核兵器を保有するロシアは軍事大国のイメージが強いが、実は軍事面でも力を低下させつつある。かつてアメリカに並ぶ世界最大規模だった軍事費は、現在は米中英印サウジアラビアに次ぐ6位である。国防予算は484億ドル(1ドル110円換算で5兆3240億円)で、20年にはフランスにも抜かれると見られている。
ロシアの誇る武器装備にもバラつきがある。10月に地中海東部に派遣した空母「アドミラル・クズネツォフ」は30年前の建造で、カタパルトがない。圧縮蒸気の力で一気に艦載機を加速、離陸させるカタパルトの技術はアメリカだけが持っている。同空母から飛び立つ戦闘機は燃料も爆弾も少量しか積めない。11月以降、少なくとも2機の艦載機が地中海に墜落している。
シリア空爆ではターゲットに正確に当てるピンポイントの誘導弾ではなく、爆撃機から投下する「馬鹿爆弾」という通常爆弾を用いている。正確な攻撃ができずに一般国民に多大な犠牲を出し続けている。
こうした中、アレッポ奪還はロシア軍事介入の成功例として華々しく喧伝されたが、実は同じ頃、ロシアはシリア中部の世界遺産都市パルミラをイスラム国(IS)に奪われている。パルミラには油田があり、ISにとって重要な戦略拠点だ。専門家はアレッポを含めたシリアの戦況も極めて流動的だと見る。
ロシアの力を過大評価も過小評価もしないことだ。時期が来るまで、あらゆる面で日本の力を強化することに集中するのがよい。その間、北方領土の元住民がより自由に往来できるようになるのが何よりだ。