「 おおむね好意的だった戦後70年談話 今、見詰め直すべき先人たちの物語 」
『週刊ダイヤモンド』 2015年8月29日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1097
安倍晋三首相の戦後70年の談話は関係諸国も含めて、大方の国々に歓迎された。国内では「朝日新聞」社説が批判したが、世論はおおむね好意的だった。
ソ連の対日参戦という、日本が侵略された歴史にほとんど触れなかった点を除けば、談話は極めてバランスが取れており、私は高く評価する。日本の戦争を日本だけが暴走した結果とみるのではなく、欧米諸国の動きに連動したものとして捉えている。日本が追い詰められた状況にも目配りした歴史観を政府が打ち出したことの意味は限りなく深い。
それだけにいま、日中、日韓の歴史を当時の状況に基づいて思い起こすことには深い意味がある。その点で首都大学東京特任教授の鄭大均(テイ・ダイキン)氏編の『日韓併合期 ベストエッセイ集』(ちくま文庫)が啓発的である。
日朝双方の文人による43篇の作品を収めた同書への思いを、鄭氏は「人間を忘れた形で国を論じることが日韓の流行現象」となったいま、日韓の政治的争点である日韓併合期を、当時を生きた人々の目を通して見、彼らの文学的遺産に息づく自由の精神を味わってほしいと強調している。
明治40(1907)年生まれの任文桓(イム・ムナン)氏は東京帝国大学法学部に進み昭和10(35)年に朝鮮総督府に職を得た。本書には彼の随筆三本が収められているが、それだけを読んでも当時の日朝両民族の姿が、自然な呼吸で吐き出される息のように生き生きと伝わってくるのを感じるだろう。
彼の幼名はバウトク。日本統治下の忠清南道で普通学校に学んだが、「日本人の友人は1人も出来なかった」。
「もし日本が朝鮮統治に失敗したとするならば、その責任は日本に住んだ日本人ではなく、朝鮮に住んだ日本人の負うべきもの」と断じる彼は、16歳で友人と共に山口・下関に渡り、汽車で京都に向かった。
バウトクは「周囲の支配民族(日本人)から『鮮人奴が』と、怒鳴られるに決まっていると信じ」「死ぬ前に、いつかは復讐して見せる」と心に誓っていた少年だった。だが、民族差別に対してカミソリのような研ぎ澄まされた感覚を持っていた彼は、3等席の日本人の視線のどこにも朝鮮人軽蔑の陰影すら見いだせなかったのだ。「鮮人のくせに、生意気な、という眼光を投げ掛ける人間など1人もいな」かったこの「驚くべき発見」に「幸福感がひしひしと胸に迫った」という。
彼は滞日12年の体験を「驚くべきこの世界は、バウトクのその後においても、ほぼ真実であった」と語った。
金素雲(キム・ソウン)氏は任氏と同年生まれ。13歳で釜山から来日、21歳で北原白秋の門を叩き『朝鮮口伝民謡集』を発表した。鼻柱の強い金氏の日本滞在には波乱が付きまとう。氏の苦境を見かねた芸者の心付けを「そんな職業の女性の同情」は受けられないと拒絶した若き自身への苦い思いもつづられている。
食べる金もないと窮状を訴えた日本の友人は助けるそぶりも見せずに立ち去った。怒り心頭に発して下宿に戻ると、友人から1俵のコメが届いていた。東大入学祝いのロンジンの時計も残されていた。友人は金氏の誇りを傷つけないよう一言も言わずに友情を実践したのだ。彼は「友情の勘どころを教わった」と述懐している。
名もないみすぼらしい詩人だった金氏が北原白秋邸の裏門を叩いた折の物語は、日韓両国民が私たちは実はこのような素晴らしい関係を築いていたという証しとして深く心に刻みたい。
韓国に日本統治時代を必死に前向きに生き抜いた人々がいれば、彼らに相呼応し、日朝融和を実現した日本人もいた。私たちの眼前に広がる荒涼たる日韓の現状とは異質な、十分に評価すべき世界があった。こうした先人たちの物語をひもとけば、おのずと未来への希望が生まれる。一読を勧めたい。