「 憲法改正、偽の衣を捨て去る時 」
週刊『週刊新潮』 2007年5月24日号
日本ルネッサンス 第264回
5月14日、憲法改正の手続きを定める国民投票法が参議院で可決、成立した。現行憲法は改正のための条件を規定しているにもかかわらず、60年間も、改正を実施する法律がなかった。その法律上の空白が埋められ、憲法改正を党是とする自民党が、立法の不作為を克服して公党としての公約を果たせる体制を、漸く作ったのだ。自分の任期中に憲法改正をやり遂げたいと語る安倍晋三首相の決意が窺える。
なぜ憲法改正が必要か。第一に憲法というものが、国家の根幹をなすものだからであり、またそれはその国民の価値観を反映させたものでなければならないからだ。周知のように現行憲法はマッカーサーの命令で作られた。特に9条は「天皇の地位、戦争放棄、封建制の廃止」に関する「マッカーサー三原則」の戦争放棄の原則が下敷きになっている。
マッカーサー案は以下の内容だった。「国家主権としての戦争は、廃止させる。日本は、紛争解決の手段としてのみならず、自国の安全を保持する手段としての戦争をも放棄する。日本は、その防衛と保全とを、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を維持する権能は、将来ともに許可されることがなく、日本軍に交戦権が与えられることもない」
彼が日本に対して「自国の安全を保持する手段としての戦争」をも禁ずるつもりだったことを、日本人は忘れてはならない。彼は日本国から一切の自衛権を奪い去るつもりだったのであり、侵略を受けたが最後、日本人は座して耐え、侵略者に隷属せよ、それがいやなら、黙って滅んでいけという意味だったといえる。マッカーサーが心の奥深く、どれほど強い日本憎悪の感情を抱いていたかを窺わせる内容である。
憲法草案の起草に関わった民政局もこれには驚いて、「自国の安全を保持する手段としての……」の件を削除した。日本はこれでやっと、侵略を受けた場合は、自衛のための戦いをしてもよいと認められたのだ。
国家は本当に゛悪〟なのか
それでも、マッカーサーが日本国憲法の根幹に組み込んだ、日本国政府に対する類例のない強い縛りは、そのまま残った。軍を否定し、政府の権威も権力も否定し、他方で国民に対しては、権利と自由を強調した。マッカーサーが作らせた日本国憲法では、政府と国民は対立の構造に置かれ、従来の日本の善き風土であった政府と国民の間の信頼関係は姿を消した。
日本国憲法のなかの国家と国民の対立構造は、人類最初の近代憲法である米国憲法をみると、その成立ちや性格の必然性がよくわかる。指摘するまでもなく、米国は母国英国との戦いの炎のなかから生まれた。米国憲法が、英国の軛から逃れ為政者の圧政や悪政に決別するために、たとえば国民の直接選挙による大統領選出や、三権分立を通して国民の権利を保障する性格を強くしたのは自然の成行きだったといえる。
その4年後に生まれたフランス憲法は、革命で王権を倒し、旧体制を破壊し、国民一人ひとりの人権を保障する人権宣言の精神に基づいて作られた。ここでも国家と国民が対立の構図に置かれている理由も必然性も、よくわかる。
だが、批判だけでは何も生まれない。国家を゛悪〟や゛圧力〟と見做すだけでは、何も解決されず、そもそも国家の存在意義もない。そこで国家を構成する国民は、人間として人間に値する生活を営む権利があるという考えが生まれた。これを「社会権」と呼ぶ。「社会権」は、国家が社会権(国民の権利)を担保するためには、国家権力を行使しなければならず、そのための法的根拠を国家に与えなければならないとの考えにつながっていった。この考えを「授権規範」と呼ぶ。
こうして、憲法の目的は国家権力の濫用防止だけではなく、国家には国民のために積極的に果たす役割があるのだということが理解され始めた。国家を前向きに評価するこの新しい視点は、明確な傾向として各国憲法のなかに根づいていった。
日本の歴史を見ると、実は日本こそが、米国やフランスよりも遥か前から、米国については、その誕生のずっと前から、国家と国民の融合のなかで授権規範の考え方を実践していたことがわかってくる。近代憲法に限れば、日本はアジアではじめてそれを持ったけれども、欧米゛先進〟諸国には遅れていた。しかし、歴史を遡れば、゛先進〟諸国より遥かに早い段階で、彼らが目指す国家の前向きの役割を、日本国は体現していたのだ。それを示すのが、日本の2つの憲法、604年の十七条憲法、1889(明治22)年の明治憲法である。
日本人の゛知の精神〟
明治憲法は明治元年に出された゛五箇条の御誓文〟の精神に基づいて起草されたが、遡れば、それもまた、十七条憲法の精神を受けついでおり、共に日本人の生き方と価値観を濃厚に反映している。たとえば十七条憲法の第一条には「上和らぎ、下睦びて、事を論うに諧うときは、事理自からに通う。何事か、成らざらん」と書かれている。身分の上下を超えて問題を論議し、十分に皆が理解するときには、道理は自ずと通るようになり、物事が達成されると説いているのだ。
また、同憲法は賄賂を戒め、貧しき民の訴えに公正に耳を傾けよと説き、「信」と「義」の体現が政治の重要事だと強調する。人間の知の力は大宇宙の真理から生ずるとの立場で、人間の知の力を信ずる基本姿勢を保っている。
遥かな昔、私たちの先人が定めた憲法、国の姿は、和を基調とし、日本人一人ひとりの知の力を信ずる民主的な精神によって成り立っていたのだ。先人たちが日本国の形として書き残した価値観は現代にも十分通用するメッセージである。
強調すべきは、この十七条憲法の延長線上に五箇条の御誓文と明治憲法があり、日本国の形としての憲法は、時代を超えてつながっていること。それは国家というものが、ひとつの有機体のように、民族の文明を世代を超えてひきついでいくものであることを示している。だが、マッカーサーが作らせた現行憲法は、国家の継続性とも日本の価値観とも無関係だ。むしろ、日本的価値の全てと長き文明の流れをバッサリ切り捨てた。現行憲法は、真の意味で、日本人の憲法ではないのだ。だからこそ、改正が必要なのである。
国民投票法の成立で、木に竹を接ぐように不自然な形で与えられた現行憲法を変えるための第一歩が踏み出された。それでも改正への道は長く険しい。だからといって安倍首相は妥協を図り、改正のための改正に終わらせてはならない。改正が、真に日本国と日本国民のためになるよう、勇気ある提言を続け、全員で議論することが大事である。