「 被爆地として理に適った姿勢を貫いた長崎市長への許されざる犯行に憤る 」
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 688
長崎市長選挙に立候補していた、伊藤一長(いっちょう)現市長への銃撃事件とその後の死亡の第一報は、被爆地長崎の反戦平和志向、前市長・本島等氏への銃撃事件の記憶とただちに結び付き、頭の中で伊藤氏の発言がよみがえった。
1995年、前市長の本島氏を破って当選した伊藤氏は、当選後は前任者の路線を継承し「核兵器の使用は国際法違反」(95年11月)、「核兵器と人類は共存できない」(2005年5月)などと発言してきた。氏の姿勢には米国への批判も色濃く反映されており、同時多発テロ後の米国の核政策に関して「国際社会の核廃絶への努力に逆行」「一連の独断的な行動は断じて許せない」などの表現で、米国を名指しで批判した(02年8月の原爆の日)。
その一方で、氏は、自民党から参議院議員への立候補を打診される側面も持ち合わせていた。
現場で逮捕された犯人、城尾哲弥は犯行前にメディアに手紙を送り、長崎市と入札をめぐる問題があり、「市長を許せない」などと書き連ねていたと報じられた。長崎市発注の工事現場でクルマが破損されたとしてクレームをつけていたことも報じられた。
山口組系水心会会長代行の城尾容疑者の犯行はこれから全容が解明されるであろうし、銃撃事件翌朝の現時点では詳細はわからない。だが、入札やクルマの破損に関する金銭問題を根に持っての犯行としても、その犠牲の痛ましさ、私たち日本人が喪うものの大きさと深刻さに、言葉を失うのである。
民主党の衆議院議員で畏友でもあった石井紘基氏も、02年10月25日、あまりに理不尽な理由で殺害された。氏は特別会計に注入される巨額の資金や、特殊法人問題を徹底調査した。特殊法人とその下にぶら下がっている各種組織の相関関係を大きな紙に図で表し、その一つひとつがどこでどのようにつながっているかを矢印でつないでいた。氏作成の、詳細な情報によって裏づけされた特殊法人相関図は、まさに日本国の闇を図解したものだった。
私たちはこの図を前に、健全な日本国をつくるには、特殊法人を解体し、複雑な構成によって実態が覆い隠されている特別会計の資金を、国民の目に見えるところに置き、説明可能な合理的なものにつくり直していかなければならないと励まし合ったものだ。
その石井氏が殺害されたとき、私は真っ先に、石井氏の政治活動に批判的な輩による政治テロだと考えた。その反応は、石井氏の政治活動を知る者としては自然な成り行きだった。だが、蓋を開けて見れば、たびたび現金をせびりに来ていた卑しい男の犯行だったというのだ。
そんな男に石井氏は殺害され、私たちは貴重な人材を政界から失った。氏が地道な調査で集積した膨大な情報が、この国の根幹にある闇の解明にどれほど役立ったかを考えると、犯行に対して心底、憤りがこみ上げ、氏を失ったことの悲しみが溢れてくる。
伊藤氏についても同様だ。被爆地長崎で核兵器に反対する心を持つのは当然である。いかなるかたちでか、長崎市長として米国を批判するのも十分にわかる。広島、長崎での米国の行動は許されざることだからだ。伊藤氏の米国批判は、原爆の犠牲者を悼む碑に、「過ちは繰返しませぬから」と書き、あたかも、反省すべきは市民への無差別攻撃に踏み切った米国ではなく、被害を受けた日本国および日本人であるかのような広島における姿勢よりもはるかに理に適っていると、私は考える。
氏の姿勢にものを言うとすれば、現在の日米関係の、日本にとっての意味合いと重要性を、もっと測るべきではないかという点だ。だが、日本は幅広い言論、信条の自由を歓迎し、その自由によってこそ成り立つ国である。いかなる理由にせよ、自由と民主主義への重大な挑戦である今回の犯行は許されないのだ。
暴力を許すな
暴力から国民を守ることは、国家の重要な仕事である。国民が安心して暮らせるには、国
トラックバック by 野分権六の時事評論 — 2007年05月26日 03:46