「 完全敗訴でも開き直る文科省 」
週刊『週刊新潮』 2007年4月26日号
日本ルネッサンス 第261回
去る3月29日、東京高裁で極めて地味な、ある裁判の判決が言い渡された。判決は、被告である国(文部科学省)に40万円の支払いを命じた。上告期限の4月12日になっても、敗訴した国が上告しなかったため、判決は確定した。原告で元東大医学部輸血部長、柴田洋一氏の勝訴が確定した瞬間である。
柴田氏は03年9月に、情報公開制度の不当な運用で精神的苦痛を受けたとして、損賠訴訟を起した。この裁判で明確になったことは、文科省の官僚らが一致団結して嘘をつき、遠山敦子大臣(当時、以下同)をも巻き込んで、国会をはじめ公的場所で少なくとも8回にわたって虚偽の答弁を繰り返した事実である。
事の発端は02年に遡る。「国立大学医学部附属病院長会議・常置委員会」の名前で「国立大学附属病院の医療提供機能強化を目指したマネジメント改革について(提言)」(以下「提言」)が発表された。国立大学病院の経営改革は当初、国立大学が法人化されるのに備える措置として考えられていた。しかし、厚生労働省が包括医療制度を03年度から導入したいと申し入れた時、事態は思いがけない方向へと進むことになる。
包括医療とは、分かり易くいえば一定の疾患は一定の医療費の枠内で治療せよというものだ。最先端医療の研究と臨床を担う大学病院とはいえ、無制限に医療費を使ってはならないという考え方だ。加えて厚労省は、医学生の卒後臨床研修を04年度から2年間の必修にすることも決定していた。文科省の管轄下にある医学生が、卒業した瞬間から厚労省の傘下に移るということだ。
上の二つの政策は大学病院や医学生に関する文科省の権限や縄張りが厚労省によって激しく侵されることにつながる。文科省は、巻き返すべく、猛然と動いた。包括医療制度は国立大学附属病院の医療収入を激減させると予測し、その導入阻止に向けて族議員らへの働きかけを始めたのだ。先の「提言」は、議員らにアピールするにはまず国立大学附属病院の合理化が必要だとの思いからまとめられ、結果として、病院経営のみを重視した偏った内容となった。
最先端医療を潰す文科省
提言は激しい反発を招いた。東大医学部教授会総会は抗議の意見書を発表し、提言が「病院の経営面のみに力点」を置き、「教育研究に言及することを意識的に回避した」と非難した。教育研究や医療の充実を置き去りにした象徴的事例が大学病院を支える中央施設(検査部・輸血部・病理部・薬剤部)を縮小、廃止し、外注化することだった。現代の先端医療を担う組織で、検査や病理や輸血の仕事を外注する先進国がどこにあるかと、柴田氏は問う。経済効果のみに立つ暴挙に出れば、日本の医療研究は立ち遅れざるを得ないと警告する。
それにしても大学病院長らは、なぜ、大学病院、つまり自分たちの依って立つ専門領域の根幹をなしくずしにする゛改革案〟を出したのか。どうしても解せないこの問題のカラクリは簡単だった。提言を書いたのは大学病院長らではなく、文科官僚だったのだ。ではなぜ、文科官僚らは、日本の最先端医学を潰すような提言を書いたのか。このカラクリも、実に簡単だった。
文科省が厚労省に既得権限を奪われそうになり、躍起になって巻き返しを図ったことはすでに述べた。「提言」に至る作業部会では村田貴司医学教育課長、谷本雅男大学病院指導室長、浅野敦行医学教育課長補佐、両角晶仁医学教育課長補佐の4名が中心的役割を果たした。彼らは文科省の権限を守ることを優先し、医療研究機関としての大学病院の使命を二の次にしたのである。
実は、私は当時、国立大学法人化や大学病院改革の在り方を取材していた。やがて大学病院改革が文科省の恫喝とも言うべき強引さで進められ、「提言」が大学人の発意という形をとりながらも、実は文科官僚の手によるものだったことを突きとめ、まず、02年7月号の『中央公論』で、次に03年6月号の同誌で報じた。
文科省が「ない」といって存在を否定した作業部会の議事録も手に入れたが、300余頁の議事録からは、作業部会で「浅野試案」なるものが示され、すべての議論が同試案に基づいて進んでいった様子が具に見てとれた。浅野課長補佐は前述のように、「提言」作成に主要な役割を果たした4官僚の一人だ。彼が暴力団まがいの「実弾」などの表現で大学病院長らにハッパをかけ続けていた事実も、議事録に明記されていた。そうして生まれたのが、大学病院のコスト削減にのみ集中し、医療研究という視点からは暴挙としかいえない先述の提言だったわけだ。
恥を知らない虚偽発言
だが、そうした事実を伝えた私の記事に対し、文科官僚及び文科大臣の対応は呆れるばかりだった。彼らは表情を変えずに嘘をつき、事実を歪曲し、嘘も繰り返せば真実になるとでも言うかのように、省を挙げて虚偽の発言を繰り返したのである。
たとえば文科省高等教育局長の工藤智規氏は02年7月3日、衆議院文部科学委員会で、『中央公論』の拙稿について「大変残念、不本意な記事」「全体として誤解に基づく記事」「(提言は)私ども役人が作成したものではない」などと述べた。
遠山文科相も同日、同委員会で拙稿について、「あの件に関しては非常に誤解の部分が多い」と述べ、続く7月22日の衆議院決算行政監視委員会では「いささか一部の意見だけをベースにされた内容」「誤解が非常に多い」と非難を繰り返した。
だが、議事録の存在や文科官僚こそが提言を作成していた様子を、議事録を引用しながら本誌及び『中央公論』で、再度詳しく報ずると、彼らはようやく議事録の存在を認め、遠山文科相が衆議院文部科学委員会で虚偽の答弁を謝罪、小松弥生医学教育課長は、筆者に口頭で謝罪した。
一方、文科省の手法に憤慨して東大医学部教授の職を辞した柴田氏は、議事録に関して情報公開請求を行っていた。文科省側は、一貫してそのようなものは存在しないと突っぱね続けた。遠山大臣が謝罪したあとも、彼らは言い続けた。議事録はあったけれど、文科省は提言作成に関与していない、と。
そこで柴田氏は03年9月16日、文科省に慰謝料等の賠償を請求。冒頭で述べたように今月12日に国の敗訴が確定。しかし、勝訴にもかかわらず、柴田氏の憤りは収まらない。
「判決文には、提言作成に文科省が関与したことが明確に書かれています。しかし、文科省は敗訴したいまも、それを否定するのです」
だからこそ、明記したい。大学病院改革のとんでもない案は文科省が作成したものであることを。ちなみに氏が職を辞して抗議した輸血部の廃止は、とり消され、守られることになったこともここに明記したい。