「 根本において動物である人間の生後3年間に必要な安心感 」
『週刊ダイヤモンド』 2013年8月31日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 999
6年前に創設したシンクタンク「国家基本問題研究所」でこの秋、教育問題委員会を明星大学教授の髙橋史朗氏を迎えて設置することになった。
教育は長年考えていたテーマの一つだ。だが教育ほど幅広く、奥深い課題はない。大学以上の専門的な知的分野、中学高校を中心とする分野、基本としての小学校、根源的に重要な部分としての家庭教育などがある。いずれも重要性において優劣つけ難い。けれどあえて言えば、日本の教育の最も深刻な問題は家庭教育における失敗ではないかと思えてならない。私たちは長く、人間の生きる力、その力強さを、子どもたちの中から引き出すことに失敗してきたのではないか。
そんなことを考えさせるのが髙橋氏の対談集『主体変容の教育改革!』(MOKU出版)である。約3年前に出版された同書に東京の上野動物園の獣医だった中川志郎氏との対談がある。
中川氏は人間の赤ちゃんは母親の胎内で長い時間をかけて成育するにも拘わらず、自分一人では全く動けないという他の動物にはあり得ない状態で生まれてくる、そのことに大きな意味があるとして、次のように語るのだ。
「つまり(一人前になる)この時期に母親を中心とした周囲の人間からあらゆることを吸収して初めて、立ち、しゃべり、考えるという人間としての基本的な行動を始められるようになるわけです。逆に言えば、そうしたケアがなければ人間にはなれないということです」「僕たちは忘れてしまっているけれど、胎児の頃の人間は水棲動物です。子宮内は、羊水で満たされた重力を感じない世界。栄養も十分に与えられ、害のあるものも入ってこない、いわば極楽です」
ところが出産で赤ちゃんはたった数時間で水棲動物から陸上動物へと突然、変化を遂げる。胎内と外界との大きな差の中で赤ちゃんはダメージを受ける。ダメージは物理的なものではない。むしろ心のダメージなのだと中川氏は言う。だからこそ、「赤ちゃんには胎内で得てきたような『絶対的な安心感』」を与えることが必要だというのだ。
赤ちゃんが育ち、立ってしゃべって考えるようになるまでの、絶対的な安心感が必要な時期は、生後3年間だと氏は繰り返し強調している。
子どもに安心感を与え得るのは母親しかいない。そうした指摘を受けて、日本の実態について、髙橋氏が非常に興味深い調査を紹介しているのだ。
「世界価値観調査」で、「親が子の犠牲になるのはしかたがない」と答えた人の数が日本では非常に少なく、調査対象73ヵ国のうち、日本はなんと、72番だったというのだ。
「子どもの犠牲になりたくない」と考える親が増えていて、政府も働く母親たちを対象に子育て支援策で待機児童ゼロを目指している。この母親支援は女性の社会進出、および人口減少に悩む日本の労働力確保という点から、たいがい評価されている。
しかし、これを子どもの側からも見る必要がある。参議院議員の山谷えり子氏は「待機児童」という表現自体が誤りで、その実態は「待機父母」だと指摘する。「子どもは母親や父親のそばにいて最も安心できる。生まれて月日の浅いうちから、母親から離され預けられることがどのような影響を及ぼすのかについて、私たちは考えるべきです」と、山谷氏。
中川氏が指摘したもう一つの興味深い点は、霊長類の場合、赤ちゃんを胸に抱くことで母親に満足感が生まれ、急激に脳下垂体が刺激されるということだ。すると、オキシトシンやプロラクチンといった母性強化ホルモンが作られ、母親の母性が育つというのだ。人間は根本において動物であることを忘れてはならず、教育、そしてその土台の子育てはその点を踏まえて考えなければならないということだ。