「 屈服するのか米国メディア 」
『週刊新潮』 '05年7月14日号
日本ルネッサンス 第173回
米国のメディアがおかしい。
情報源の秘匿を理由に法廷侮辱罪に問われていた2人の記者の上告を米最高裁が却下し、最悪の場合、2人は1年6カ月の禁固刑を受けて収監される可能性が出てきたところ、一方の記者、マシュー・クーパーを擁する雑誌『タイム』側が6月30日、クーパー記者の取材ノートを連邦大陪審に提出すると発表したのだ。クーパー記者はそう決定した『タイム』に「失望した」と述べたが、『タイム』の決定は変わらない。
もう一方の当事者、『ニューヨーク・タイムズ』(NYT)紙のジュディス・ミラー記者とNYT社は、雑誌『タイム』の決定を「極めて遺憾」と批判した。ミラー記者は、取材源を秘匿するためには刑務所行きも辞さないとしており、NYT社も全面的に彼女を支援する構えだ。
この事件には不可解なことがある。その第1は、なぜ、2人の記者が罪に問われなければならないのかという点だ。今回の事件は、2003年に保守系のコラムニスト、ロバート・ノバック氏がジョー・ウィルソン元駐ガボン大使の妻を実名で中央情報局(CIA)の工作員だと報じたことが発端だ。ウィルソン元大使はそれより前、ブッシュ政権の依頼によってサダム・フセインのウラニウム購入疑惑について調査を行ったとされる。調査の結果、元大使はブッシュ政権が抱いていた疑惑は根拠が極めて薄弱だとして、批判の論文をNYT紙に寄せていた。
元大使の記事が掲載されたあと、ノバック氏が元大使の妻はCIA工作員だと報じた。この報道は波紋を呼び、各社は後追い報道をした。NYT紙のミラー記者も取材したが、結局、記事は書かなかった。タイム誌のクーパー記者は記事を書いたが、なぜ、元大使の妻に関する情報がリークされたのかという背景を書いた内容となっている。元大使の政権批判に対する報復のために、彼の妻の“正体”を何者かが曝露したのではないかとの推測が、クーパー記者の背景にあったといえる。
匿名情報の功罪
しかし、よく考えれば、元大使の妻を実名でCIA工作員と書いたのはノバック氏だ。繰り返すが、クーパー記者は後追い報道をし、ミラー記者は取材はしたが記事は書いていない。となれば、ノバック氏にこそ、情報源を尋ねるのが筋ではないか。にもかかわらず、ノバック氏は沈黙を守ったままだ。召喚状を受けとったのか、事情聴取を受けたのかについても、7月5日現在、語っていない。2人の記者が収監されるかもしれない点についても同様だ。
こんな状況下で、『タイム』誌側が突然、取材ノートを連邦大陪審に提出すると発表したことはすでに述べた。編集局主幹のノーマン・パールスタイン氏は「最高裁が(上告を)棄却したからには、我々も法の矩をこえてはならないと決めた」と語る。
米国内の意見はまっ二つに分かれており、最高裁の決定も『タイム』誌の決定も、ひとつの見方で括ることは出来ない。今回の事件を俟つまでもなく、取材における匿名情報の扱いについて、米国のメディアでは、報道への信頼をかけて“内なる戦い”が続いてきた。如何に真実の情報を探り出し、読者に伝えるかという命題は、ジャーナリズムにとって、永遠の最重要の課題である。その使命のなかで、匿名情報は常に諸刃の剣となってきた。
たとえば、立場や実名を伏せたままの匿名情報は、発信者にとって都合のよい一方的情報が十分にチェックされることなく報じられることにもなる。或いは極端な場合、捏造さえ起き兼ねない。このような危惧は度々現実のものとなってきた。『新聞研究』(2004年5月号「実名原則をより明確に」杉田弘毅氏)に詳しいが、NYTのJ・ブレア記者の多数のでっち上げ記事やUSAトゥデーのスター記者、J・デリー氏の捏造などがその実例だ。
一方、匿名でなければ到底語ってもらえない真実の情報もある。組織内の人物が、文字どおり、職と社会的生命をかけて伝えてくれる貴重な情報もある。社会の悪や矛盾はこうした情報を受けとめることによって抉り出すことが出来る。だからこそ、匿名で語った情報源を守り通すのは記者の心得の根幹なのだ。
報道の自由を守り抜け
匿名条件を捏造に利用するのではなく、真の情報を得るための手段としてどのように活用していけるのか、そのためにはどのような規制を設けなければならないのかについて、ワシントン・ポスト(WP)紙とNYTは2004年に相ついで指針を改訂した。WP紙は具体例を豊富に盛り込み、匿名情報の取り扱いを厳しく示している。
たとえば、記者は匿名を条件にされたとき、抵抗し、実名で取材に応ずるよう説得すべきだとしたうえで、それでも匿名で報じる場合「最低1人の編集者が(取材記者と共に取材源を)把握」していなければならないとした。また、「秘密の情報提供者に依存する、事実関係の情報に対しては少なくとも2つの──しかもそれぞれ関係のない──情報源があることが望まれる」などと、改めて強調された。
異なる情報源による情報の二重チェックのルールなどは、すでに当然のこととして取材者の間では実践されてきた事柄ではあるが、情報源を必ず編集者に報告すべしと、くどいほどに念押ししているのは、彼らが体験した捏造などの不祥事への反省であろう。
問題は、このような努力をメディア側がつみ重ねてきたことやメディアが果たしてきた役割を無視する形で、米最高裁が取材源を公開せよと迫ったことだ。また、その命令に、一社のみとはいえ、メディア側が従うと決定したことだ。
前代未聞の妥協といってよい歩み寄りを決定した『タイム』誌のパールスタイン編集局主幹に対して、ワシントン&リー大学のワッサーマン教授は「体制寄りコラムニストを使って、社会に警鐘を鳴らした人物を攻撃させ、その妻のキャリアを破壊させる政治の暴力を支持して、彼らの正体を隠そうとするのか」と批判した。
イラク報道に関して、米国のメディアが公正であったとは、私は思っていない。またこの問題について、コラムニストのノバック氏、又は2人の記者のどちらにも与 (くみ)するものではない。しかし、2人の記者が情報源の秘匿を貫徹しようとしていることには全面的に支持を表明する。匿名報道は軽々に行われてはならないが、それこそが社会の悪を暴く有効な手段でもあるからだ。報道の自由を守るこの基本原則を守りきれないとしたら、米国社会は必ず腐っていく。そのような兆候を受け容れるとしたら、米のメディアは報道の自由を守ってきた誇りある伝統を放棄し、権力に屈服することになるだろう。