「 先人たちの祖国への想いを今こそ学び、伝えていきたい」
『週刊ダイヤモンド』 2011年8月13・20日合併号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 899
もうすぐ8月15日、3・11の大災害に見舞われた今年はとりわけ多くの人が、日本と日本人のあり方について思いを巡らすのではないだろうか。
私は恩師の話をうかがった。新潟県立長岡高校で古文を教えておられた山本清先生だ。小千谷市の自宅で、大正末年生まれの85歳の師はかつてと同じく、端然とした様子で話された。
先生は終戦直前の昭和20年8月に前橋の予備士官学校に入り、特別甲種幹部候補生となった。
「長岡は8月1日、米軍の空襲を受けました。夜中に小千谷から見ると、長岡方向の空が真っ赤に燃えていました。親戚のことが気にかかり、自転車で駆けつけると、夜が明けた町の様子には言葉もなかった。柿川には幾体もの死体が浮いていましたが、熱さに耐えられず川に飛び込み、水の表面を走る炎に焼かれて多くの人が亡くなったのです。そうした惨状を見て、翌日、予定どおり、前橋で入隊しました」
そのときの気持ちを先生はこう語る。
「学生ですから世界の情勢はまったく読めていません。しかし、学徒動員で、群馬県太田市の中島飛行機で、すでに1年間働いた経験がありました。『キの84』、疾風(はやて)という飛行機の製造を手伝っていたのです。中島飛行機も2月10日の空襲で焼かれ、戦況がきわめて悲観的であることは感じていました。ですから、兵となることは戦って死ぬことだとよくわかっていました。それも受け入れよう、日本の窮状と故郷の人たちの苦しみを見て、若い自分たちが先頭に立たなければならないという使命感が先に立ちました」
入隊後、すぐに千葉県九十九里に配属されることが決まった。作戦目標は敵の上陸阻止で、浜に沿って50メートル間隔で「タコツボ」を掘り、携帯地雷を2個持たされる予定だった。配属命令が出るまで、群馬県榛名山の麓の相馬ヶ原で、タコツボ掘り訓練を受けた。榛名山の黒い火山灰を九十九里の砂に見立てて穴を掘った。相馬ヶ原を登れば伊香保がある。この地で20歳の若者は死を覚悟で約2週間を過ごし、敗戦を迎えた。予期していながらも、現実に敗戦を迎えると、人生の目標を見失ったような喪失感に襲われた。それでもしっかり生きなければならないと思い直したのには、ある体験があったという。それは故郷に帰る列車内での小さな出来事だった。
「列車は立錐の余地もなく混んでいました。東京から小千谷まで7時間、男はゲートル、女はもんぺ姿です。そうしたなかで、赤ん坊が泣き始め、泣きやみません。疲れといらだちから、『ウルサイ、乳を飲ませろ!』という声が上がりました。『お乳が出ないんです!』という母親の悲痛な叫び声も返ってきました。今のようにベビーフードがあるわけではない。母乳が子どもにとって唯一の食事です。それなのに乳が出ない。車内が一瞬、静かになったとき、列車後部から『お乳、あります!』という別の女性の声が聞こえたのです。すぐに、赤ん坊が皆の頭の上をスルスルと、まるでボールのように手渡しされていきました。身動きが取れませんから、私はどちらの女性の顔も見ていません。けれど、赤ん坊の泣き声はすぐに収まりました」
そのとき、先生は感じたという。敗戦で日本人は極限まで困窮し、不幸のどん底にある。自分たち若い者が防波堤になってこの人たちを守らなくてどうする、ウロウロ迷ったり落ち込んでいてはならない、と。やがて先生は國學院大學に復学し、民俗学を学んだ。民俗学の泰斗、折口信夫や柳田國男らが身近にいた。こうして先生は立ち直った。先生の物語には日本人として知っていなければならない宝物のような話がいっぱい詰まっている。日本全体が不安に揺らぎ先が見えにくい今こそ、先人たちが祖国をどのような思いで支えてきたかを学び、それを力となして、伝承していきたいと、私は願う。
ちなみに今回、お話をうかがううちに、かつて小欄で取り上げた日本初の公立小学校をつくった小千谷市の篤志家、山本徳右衛門は山本先生の祖父であったことも教わった。故郷の英雄はごく身近におられたのだ。