「 中国が影を落とす台湾総統選挙 」
『週刊新潮』 2011年7月28日号
日本ルネッサンス 第470回
台湾政界は、半年後に迫った総統選挙を前に、熱い戦いの真っ只中だ。政権与党の国民党は早々と現職の馬英九氏を総統候補に、呉敦義行政院長(首相)を副総統候補に決定した。政権奪還を目指す民主進歩党は、総統候補の蔡英文主席を中心に、副総統候補と対中政策を8月に開催予定の党大会で発表する。
台湾は世界一の親日国である。その国の行方に日本人と日本国が無関心でいられるはずはない。東日本大震災に対する、人口2,300万人の台湾からの義援金は200億円に上っている。これは馬英九総統が主導して集めたわけではなく、台湾国民ひとりひとりが自発的に拠出したもので、台湾の人たちの日本と日本人に対する親愛と友情の発露である。
私は震災から1週間後の3月19日、世界台湾人大会で講演するために台北を訪れたが、街の角々で、胸が熱くなる応援の声をかけてもらった。見ず知らずの人々から、「日本、頑張れ!」「大丈夫、日本はきっと復興できる」「台湾人はみんな応援している」という声を、本当に多くいただき、台湾の人々の日本を想う気持の有難さに涙しそうになったものだ。
その台湾は、来年1月の総統選挙で、またもや国民党を選ぶのか、民進党に政権奪還させるのか。1月の選択は台中関係を規定するだけでなく、日本とアジア全体の運命に大きく関わってくる。
国民党馬政権の特徴は、急速な対中接近にある。それを象徴するのが、「92年合意」で、馬総統は蔡主席に「92年合意を認めるのか、否定するのか。否定するなら、民進党は対中政策をどのように進めるのか」と質している。
必ず総統選挙の焦点のひとつとなるであろう92年合意とは、中国と台湾が行った92年の香港会談で成立したといわれる「一個中国、各自表述」のことだ。その意味は、「中国はひとつの国、その表現は中国と台湾各自に任せる」。つまり、中国はひとつだと認めたうえで、台湾側はそれを中華民国、中国側は中華人民共和国と呼べばよいというものだ。ポイントは「ひとつの中国」を台湾に認めさせることだ。
「新台湾人」
この合意の存在が台湾政界で指摘されたのは2000年だった。しかし奇妙なことに、92年当時、台湾を代表して中国側と接触していた海峡交流基金会理事長の辜振甫(コ・シンポ)氏はこれを全面否定した。早稲田大学で名誉博士号を授与されたときの記念講演でも、明確に、合意は存在しなかったと語っている。台湾元総統の李登輝氏も同合意の存在を否定する。
にも拘らず、今も台湾で92年合意が議論されるのは、馬総統自身が同合意を対中政策の基本と位置づけるからだ。前駐日台湾代表の許世楷氏が説明した。
「92年合意は、元行政院大陸委員会主任委員の蘇起(ソキ)氏が2000年に創作して広めたはなしであることが、すでに判明しています。今では蘇起氏もあのはなしは創作だったと公に認めています。しかし馬氏は中華民国の憲法は『中国はひとつ』とする立場に立つと主張し、このありもしなかった92年合意が恰も存在していたかのような議論をするのです。彼は『中国はひとつ』という立場をとらない限り、台湾は中国との対話が望めないと恐れているのです」
現実には存在しなかった92年合意を中国は大いに利用する。彼らが強調するのが、「各自表述」の部分ではなく、「中国はひとつ」の部分であることは言うまでもない。
さて、先に触れた馬総統の問い、「92年合意を認めるのか」に、蔡主席はどう答えただろうか。この知的な50代の女性は物静かながら歯切れよくこう語った。
「台湾は国際社会の王道と歩みを一にします。従って、台湾外交は世界から入って、その延長線上で中国と接触します。中国から入って世界に行くのではありません。台湾の選択は世界と連携することで中国との協調を拡大する道です」
蔡主席は92年合意を直接、否定するわけではない。「台湾独立」も決して口にしない。現状維持で台湾の安全と発展を調和させようとする構えである。無意味に中国を刺激せず、米国に対しては、台湾側から台湾海峡及び周辺海域に問題を起こすことはしない、安心してもらってよいという意思表示である。陳水扁総統時代に台湾の独立を掲げたことで米国との関係が悪化したこともあり、蔡主席は慎重な構えをとり続ける。大人の政治家なのだ。
台湾政治について回る中国の影は、二人の候補者に「あなたは誰か」という問いも突きつける。蔡主席は、自らを「台湾人」と呼ぶが、これは馬総統への痛烈な問いかけだ。馬氏は08年の選挙で李登輝氏に倣って、「私は新台湾人だ。死んで灰になっても新台湾人だ」と訴えた。中国語、フランス語、英語は流暢でも、台湾語は不十分で、台湾人意識に欠ける親中派というイメージを変えるために、馬氏は盛んに新台湾人だと訴えた。そして勝った。
急速に進んだ親中路線
ところが、総統になった途端、氏は「新台湾人」だと言わなくなった。そんな馬氏を揶揄する次のような冗談話が台湾で流行っているそうだ。
〈馬さんはどこの国の人?/日本のある地方、四国の人だよ/なぜって彼には国籍が四つもあるからね/中華民国、米国、英国、中国だよ〉
中華民国は言うまでもなく台湾だ。米国は、馬氏が米国の永住許可証のグリーンカードを取得したことがあるからか。英国は、氏が香港生まれだからか。中国に関しては、氏の親中姿勢への痛烈な皮肉であろう。要は、馬総統の心は台湾人かという風刺だ。当人には迷惑至極であろうが、台湾国民の馬総統への感じ方がよく表現されている。
馬政権下で急速に進んだ親中路線の代表例が昨年6月29日の中台経済協力枠組み協定(ECFA)である。国民党側はECFAで5万7,000人分の新たな雇用が生まれ、平均収入も増加したと強調する。民進党側は貧富の格差は史上最悪の75倍になり、実質月収は12年前の水準に落ちた、失業率は韓国、香港、シンガポールよりも高いと反論する(「産経新聞」6月30日)。
たしかなことは、台湾の中国依存が深まったことだ。
他方、この間に中国は台湾海峡の対岸に13万の台湾陸軍の3倍強、40万人の人民解放軍を展開し、核搭載可能なミサイル1,400基以上を据えつけた。92年合意を認める馬総統の政策はこの中国の手に台湾を投げ込むことを意味する。中国の台湾併合は日本の命運に決定的な負の影響を及ぼす。だからこそ、民進党の蔡英文氏の総統就任が日本の国益により適う。蔡主席への支援こそ重要である。