「 かつての数学先進国はどこへ 子どもの脳が退屈するゆとり教育の歴史と惨状 」
『週刊ダイヤモンド』 2003年12月6日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 521号
東京大学の苅谷剛彦教授が行なった調査結果に、ゆとり教育にもかかわらず、学校の授業についていけない子どもたちが増えていることを示すものがある。
ゆとり教育は1977年の「ゆとりの時間」に始まり、四半世紀余のあいだに強化されてきた。同教育で教科内容が削られ続けたのは周知だが、その削り方は意外に知られていない。基本的には、たとえばテストをしたうえで、正解率の低い問題や内容を削るという信じがたい“行き当たりバッタリ”手法なのだ。
苅谷教授は、最初のゆとり教育導入直後の79年と、導入から20年後の97年を比較調査した。それによると、「教科書が難しい」と感じている子どもたちは、79年の30%が97年には43%に急増している。「授業の進め方が速い」と感じている子どもたちもまた、37%から44%へと増えた。
難しい内容を削り、容易な内容だけに絞り込んできたはずなのに、子どもたちは「教科書が難しくなった」と感じている。また、子どもたちがついていけない科目も増えた。
その一つが、数学(算数)である。2002年度からさらに削られた現行教科書を見ると、なぜ子どもたちが壁に突き当たるかが実感できる。教科書には、数学を本当に理解させるような土台は盛り込まれておらず、しごく簡単な内容に終始しているからだ。
たとえば、分数計算は小学校六年で教えるが、現学習指導要領には「異分母の分数の加法及び減法の意味について理解」させる。「分数の乗法及び除法の意味」を教えるとされている。
異分母の分数は足し算と引き算のみで、掛け算と割り算には、異分母分数を使えと書いていないところにも、少しでも難しそうな内容は排除する“ゆとり教育”の後ろ向きな姿勢が見て取れる。しかも、分数の掛け算と割り算には「単位分数など簡単な場合を取り扱うものとする」との制限が付いているのだ。
単位分数とは、分子が1のきわめて基本的な分数だ。分数の乗除にはそれしか使ってはならないというのでは、子どもの脳が退屈する。興味も持てないから、算数が嫌いになる。嫌いなものは勉強しなくなる。結果、どんなに薄っぺらな教科書でも、難しく感じるようになってしまうのであろう。
教科書は、内容が少ないだけでなく、各事柄の説明もきわめて不十分だ。説明不足ゆえに、実力のある子どもでさえ読んでもわかりにくいのだ。
このような教科書では、生徒だけでなく、先生方も気の毒だ。生徒に算数のおもしろさやすばらしさを見せてやれるところまで内容を深められず、またその時間もないからだ。
なんといっても、先進諸国のなかで、算数の授業時間は日本が最少である。米国が年間300時間、仏が250時間強、英独伊などが約230時間なのに対して、日本の公立小学校では150時間にすぎない。
こんな惨状を、先人はどんな想いで見るだろうか。佐藤健一氏が『新・和算入門』(研成社)で紹介しているが、江戸時代の日本は数学先進国だった。誰かが難問を出題し、それが解けると正解を額にして神社に奉納した。これを算額というが、算額を編集して出版した当時の本が多数ある、と氏は紹介する。それだけ数学が盛んだった。
日本がかつて、庶民も含めて数式を学び、数学力を競っていた知的社会だったというすばらしい事実を、子どもたちに教えてやりたいものだ。そうした歴史を知ることは、自信の一つとなるに違いないからだ。
最近おもしろかった本に、小川洋子氏の『博士の愛した数式』(新潮社)がある。天才博士が繰り出す数式の鮮やかさと美しさ。それを知る悦びを、かつての数学先進国であればこそ、日本のおとなも子どもも味わってほしいものだ。