「 住基ネットでわかる役人根性 」
『週刊新潮』 2003年12月04日号
日本ルネッサンス 第95回
長野県の住基ネット審議委員会の委員に就任して、早くも1年になる。総務省がなんとしてでも実現したかった住基ネットは、近づいて見れば見る程、奇妙で、異星人が作りあげたような仕組だと感じる。それを推進しようと必死の官僚たちの行動パターンもまた、常人の理解を超えている。
かねてより審議委員側は長野県に対し、住基ネットのコストとメリットを数値化して出してほしいと要望していた。コストはともかく、メリットを数値化するのは容易ではないだろう。随分と時間がかかってその報告書が提出されたのは11月6日の審議会でだった。担当の市町村課長西泉某氏が説明した。氏は総務省から長野県に出向の身だ。
丁寧かつ柔らかな口調で西泉課長は説明を開始した。会議録は長野県のホームページに掲載されているが、氏の話は立て板に水、文字にすると長いので、要点をかいつまんで御紹介すると、ざっと以下のとおりだ。
長野県の総人口220万人の内、今年8月25日に発行された住基カードの保有者を全体の1%とし、かつ、カード保有者は毎年2%ずつふえるという前提で計算すれば、初年度から、住民にとっても自治体側にとっても1000万円から1億円単位のメリット(コスト削減)が可能だという試算結果である。
西泉課長が置いた前提条件は、カード保有者数の他に次のようなものがある。
(1)住基カードで住民票の交付を居住地以外でも受けることが出来るので、役所への往復時間が軽減される。その時間は一人45分間、住居地以外の市町村に通勤通学する人々の半分がこのサービスを受け、この人々は時間当たり平均給与1,672円の内、45分間分の得をすることになる。
(2)住基カード活用によって省略出来る住民票の写しの交付は、全国で初年度500万件、以後毎年200万件ずつ増加し、最終的には2500万件とみて、これを長野県の人口に案分する。
(3)住基カード活用で転出届を省略し、書類を郵送した場合、住民は平均32分間節約出来る。片や自治体側は1・75分節約出来る。職員の平均時給2,004円に基づいてこれを計算する。
(4)住基ネットのシステム管理、運用のための経費は数値化出来ていないためにコスト計算から省く。
この他もっと多くの細々とした前提条件があるのだが、それらは措いて、西泉課長の計算を見てみる。
たとえば住民側のメリットである。先述のように転出届で32分間節約し、役所に足を運ぶ交通費は平均395円の節約になるが、転出届を郵送しなければならないから80円分の切手代がかかる。または住基カードで本人確認をするために住民票を取る必要がなく、役所での諸手続きに平均1回で42分が節約され、平均時給1,672円の内42分間分が節約出来るとする。
根拠なき試算の罪
西泉課長はこんな計算をA4の紙14枚にわたってびっしりと展開した。御苦労なことだ。審議会で氏は、発表した計算表を示しながら、初年度から長野県民には1億6711万円余のメリットが、行政側には1165万円余のメリットが出ると力説した。但し、経費は初年度で6億5223万円かかるので単年度では4億7347万円の赤字であるともいう。
説明では経費を差し引いて黒字になるのが2年後の平成17年度、初期投資を差し引いて全て黒字になるのが10年後の平成24年度だという。そして住基ネットをずっと続けていけば15年後の平成29年度には、なんと、長野県全体で34億4881万4,000円の黒字になるのだそうだ。住基ネットは打出の小槌か。
一心に自分の書いた報告書を説明する西泉課長の色白な頬がピンクに染まる。長い説明が終わったときに、まず尋ねてみた。現在、長野県で実際に住基カードを購入した人は何名にのぼるのかと。
西泉課長は罪のない少年であるかのような表情で答えた──「8月、9月、10月合わせまして、トータルで1,824件でございます」
西泉課長の前提では、県総人口の1%、つまり2万2,000人がすでにカードを保有していなければならない。1,824人ならば0.083%、1%の13分の1でしかない。
課長の試算はまず、最も重要なカード保有者の数について、現実の数字の13倍もの数を使った点で信用出来ない。毎年、カード保有者が2%ずつふえるという根拠もない。総務省が強い決意で住基カードを国民に強制する制度を作れば別だが、そのような手段に出ない限り、住基カードは無用のものとしてこのまますたれていく可能性がある。だから、西泉課長の年2%増という数字も、全く信用出来ない。
偽りの数字と官僚
先に示した課長の前提条件(1)は他の市町村に通勤通学する人の半分が住民票の広域公布を受けるとの内容だが、これも根拠は全くなく、偽りの前提条件となる。(2)(3)も同様だ。
(4)に関しては、実際に現場での人件費はふえるばかりであり、これを数値化出来ないという理由でコストに算入しないのでは、試算の信用性は著しく損なわれる。
加えて西泉課長は初期の設備投資を約15億円とし、これを毎年償却して平成23年には償却が終わり、県全体が黒字になるとしているが、初期に導入したコンピュータやソフトプログラムが更新もしないでずっと使えるのか。この点を審議委員の一人でコンピュータに詳しい佐藤千明氏が尋ねると、西泉課長は口ごもりつつ、言った──「更新にどのくらいの経費がかかるか全く見込めませんので…」。
佐藤氏が重ねてきいた、このシステムは何年もつとの前提で作られているんですか、と。「7年で更新です」
流石に小さい声で西泉課長は答えた。7年経ったらまた15億円をかけるということか。それでは、西泉試算はなお、根本から狂う。住基ネットのメリットが西泉課長の言うように大幅にコストを補って県にも住民にも黒字をもたらしてくれるなど、どう考えてもあり得ない結論なのだ。
もうおわかりだろう。小官僚は、本省ばかり見ながら仕事をする余り、これほどの白々しい試算をも厭わないのだ。保身の余り、恥ずかしいとも感じなくなったのだ。彼はいずれ、総務省に戻るのであろうが、こんなひどい偽り試算を作成した人物が、どんなふうにキャリアを務めあげていくのか、ケーススタディとして見詰め続けたいものだ。
それにしても、国交省にも道路公団にも同じような小官僚のなんと多いことか。彼らは、赤字に陥るしかない道路建設を進めるために、国民から遠く離れた地平で彼ら流の数字を作文し続けるのだ。