「 あぶない菅民主党外交の基盤 」
『週刊新潮』 2010年7月8日号
日本ルネッサンス 第418
菅直人首相が外交デビューしたカナダでの主要8ヵ国首脳会議(サミット)は、氏の外交音痴を曝露する場となった。
夕食会で、首相はいきなり「中国をG8に呼ぶことを考えてもいいのではないか」と提案したのである。G8は民主主義、国際法の遵守、知的財産の保護、人権擁護など、多くの価値観を共有する先進諸国の枠組みだ。その点でロシアを招じ入れたこと自体に疑問が抱かれている。異常な軍拡をはじめ、殆どの分野で価値観を異にする中国招聘の提案は結局、どの首脳からも無視された。
一体、どのようにして、この日本提案が生まれたのか。外務省高官は「事前の議論は全くなかった」と語る。首相の思いつきなのである。国際政治における思いつき発言がどれほど手痛いしっぺ返しとなり、国益を損ねるか、菅首相は鳩山前政権から学んでいないのだ。
首相は、6月11日の所信表明演説で「責任感に立脚した外交・安全保障政策」に触れ、「私は若いころ、イデオロギーではなく、現実主義をベースに国際政治を論じ、『平和の代償』という名著を著された永井陽之助先生を中心に、勉強会を重ね」たと語った。
永井氏は『平和の代償』(中央公論社、1967)によって世に出た学者だが、その18年後、主張を豹変させた。氏の学説の変遷については後述するとして、首相が心酔する永井氏は同書で何を訴えたのか。
同書を世に問うたいきさつを永井氏は、自分は「政治意識や政治行動の研究に従事してきた」が、突然、「専門外の国際政治の領域で、最初の単行本を出すという奇妙なめぐりあわせになってしまった」と、「あとがき」で記している。直接の動機は米国留学中に「キューバ危機に直面したときの衝撃」だそうだ。
非現実的な大言壮語
突如、国際政治の厳しさに目覚めた氏は、同書で「現実主義」を強調した。「日本の革新勢力の根本的な誤り」は外交や国際政治で出来もしないラジカルな主張を展開し、国内政策では反対に「十九世紀的思考の枠に閉じこめられ、保守的、よくいえば、現実主義的であること」だと断じている。この2つの傾向を逆転させなければならないとして、「国際政治と外交政策の面では、もっと徹底的に、現実主義的とならねばならない」、「国内政治と社会の領域では」「社会主義と現状変革のエネルギーを最高度に動員」せよと説いた(105~106頁)。
日本は「民主的社会主義社会」を創造すべきなのであり、それは「マルクスが描いたよう」な「経済・社会・政治制度が人間の価値創造の手段として従属されている」社会だとも主張した(104頁)。
マルクス主義的社会を創り、徹底して現実的な外交を展開せよというのだが、それはどんな外交か。たとえばベトナム戦争に日本がどう対処すべきかについては、こう書いた。
「ベトコンを交渉相手として承認すべく米国を説得し、対ソ接近の機会を通じ、米ソ間の意見を調整し、北ベトナムにも働きかけ、和平交渉の道を進めるイニシアチブをしだいに強化していく」(103頁)。
この本が67年に書かれたことは先述した。日本はその3年前に東京オリンピックを開催したが、五輪開催に合わせて名神、首都高速道路を作った。資金はIMFから借りなければならなかった。まだ貧しく、力も不十分だった日本が、東西冷戦の盟主だった米ソの間に立って意見調整をするというのだ。徹底的な現実主義を叫んだ自身の言葉に、氏自身が著しく反している。出来ないことを大言壮語した点で鳩山由紀夫氏と近似する。鳩山氏を副総理として支えた菅氏は永井氏の信奉者だ。その伝では菅氏こそが「非現実的な大言壮語」子なのか。
永井氏は日本の防衛の在り方の筆頭に「自主外交」を挙げ、それは「米国に対して、政治的に信頼感と安心感を与える方向」の自主外交だと解説する。日本の防衛努力を、「米国に安心感と信頼感を与え、しだいに安保体制から離脱してゆく前提条件」と位置づけ、「狭義の防衛費は、(中略)最大限、国民所得の二%程度までは、常識的にやむをえない」(129~130頁)と明言している。
当時はまだGNPなどの表現は使われていなかったが、氏の主張は、国防費を従前より大胆に増額せよというものだ。現在の表現ではGNPの2%に引き上げよ、倍増せよということで、これこそ、菅氏が「名著」と讃えた『平和の代償』の重要な主張である。
「永井先生との議論を通じ、相手国に受動的に対応するだけでは外交は築かれないと学びました」と内閣総理大臣としての所信を表明したからには、防衛費を倍増する覚悟があるのか。それとも、菅氏もまたその師同様、いとも簡単に主張を変える人間なのか。
「吉田ドクトリン」を賛美
先述のように、永井氏は右の「名著」出版から18年後、主張を全面転換させた。1985年に出した『現代と戦略』(文藝春秋)で、氏は、国防費2%とは打って変わって国防費を最小限にとどめ、経済活動に邁進するという、いわゆる「吉田ドクトリン」なるものを賛美した。
先に進む前に、吉田ドクトリンなるものは存在しなかったことを確認しておきたい。この点については田久保忠衛氏が85年9月号の『諸君!』(文藝春秋)で詳述済みである。
永井氏は『現代と戦略』の第Ⅱ章を「安全保障と国民経済--吉田ドクトリンは永遠なり」と題して、「戦後日本の正教ともいうべき吉田ドクトリンは、一九五二年の吉田=ダレス会談の交渉によって確立され」たなどと書いている。
吉田が「軽武装・経済重視」路線を是としていなかったことは、首相退任後の発言や1964年11月19日付の辰巳栄一氏への書簡などからも明らかだ。書簡には再軍備に反対し、正規軍を作り得なかった件について、「国防問題の現在につき深く責任を感じているのは、先日、申し上げた通りであります」と書き、再軍備の必要性について佐藤栄作首相にも、三木武夫自民党幹事長にも自分の思いを伝えてある、君(辰巳氏)も、この点について政治家の啓発に努めてほしいとの希望が記されている。
吉田が軽武装・経済重視策を是としていた事実はないのである。であれば、それを「吉田ドクトリン」として確立させることなど、あり得ない。にも拘らず、なかったことをあったとするのは、学者にあるまじき捏造であり虚言である。永井氏の真意はどこにあるのか、2%か、偽りのドクトリンか。不明である。菅氏の外交政策が、水と油のような両極端の主張を展開した人物への信奉から生まれていることに、大いなる危機感を抱くものだ。