「 荒れる山林と鹿の急増が暗示する戦後社会の陰 」
『週刊ダイヤモンド』 2002年9月28日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 463回
私は、人間に番号をつけて一元的に管理する住民基本台帳ネットワークに反対している。政府が強引に住基ネットを稼働させたために、今、全国津々浦々、住基ネットに疑問を抱いている地方自治体に出かけ、問題点について語り続けている。地方自治体の側から来てほしいという要請があれば、いわゆる手弁当で出かけている。
9月10日には熊本県の山あいの小さな町、矢部町と清和村に行ってきた。その矢部町で、日本の山や森で起きている深刻な状況について聞いた。
案内してくれた矢部町町会議員の中村益行氏が、鹿が増えすぎて困ると言うのだ。
「鹿は、山に生える下草を食糧にしているのです。下草を刈る人間がいなくなり食糧が豊富にあるものですから、どんどん増えていくのです」
今、地方に行ってみると、明らかに手入れ不足の荒れた山林が多いのに気づく。下草も刈り取られず、余分な枝も切り落とされず、風通しも悪く陽光も十分には届かないような山々だ。平地から山へと切り替わる山裾の線を見ると、手入れされていない山は、その境界も判別できないほど草に覆われている。葛や藤、あけびなどのツル科の植物が、樹木にびっしりと張り付いて伸び、さらに樹木の上にまでたどり着いて、緑の屋根のように木全体、森全体を覆い尽くしている所もある。
「ツル科の植物の葉が、樹の上に広がり、絨緞(じゅうたん)のように広がると、樹は勢いをなくし成長を止めます。かつて植林されて用材を生み出してくれた山々が、今は荒れ地になりつつあるのです」
山の荒れ具合は、竹林の広がり具合からも分かるという。日本人の心のなかの古里のイメージには、竹林が深くかかわっている。竹取物語も、春の筍も、茶室の花入れも竹の樋も、台所のザルも庭の竹垣も、みんな古里の竹林があってこそだ。それに、若竹の肌に触れたときの、あのハッとする冷ややかな艶めかしさ。美しく、気品を備えた官能、山腹に生い茂っている竹林を見ては、私は、日本の古里と深い美を想い起こしていたものだ。
だが、中村氏は言う。
「竹林は農家の裏山に少々あればよかったのです。それが竹で生活用具や農業用具を作る人も少なくなり、竹は鹿と同じく増え放題。竹林の多い山は、荒れている山なのです」
美しさの象徴ととらえていた竹山も荒れていたのだ。その荒れた山で鹿たちは食糧を十分に得て、天敵もいなくなり急増しているのだ。鹿の天敵は山犬、野犬、日本狼、それに人間だそうだ。山あいの村落の過疎化と高齢化は想像以上で、矢部町は1万2500の人口で、65歳以上の人が4500人を超えるという。きつい山仕事のできる人が少なくなり、林業の不振によってだれも山には入らなくなったのだ。
こうして鹿は安心して山裾にまで出現し、若木さえ食べてしまう。森はさらに荒れていく。森を守るには鹿の頭数制限が必要だが、猟は冬に限られており、頭数の制限は困難だという。そして、中村氏が意外なことを語った。
「猟には猟犬が必要ですが、犬までも現代は変化しているのです。ハングリー精神に欠けるというか、必死に獲物を追い詰めることができないようなのです。人間と同じで、ペットフードのようなものを与えられ、大事にされて育って、精神も肉体も脆弱になっているのではないでしょうか」
この山深い里にずっと暮らしてきた中村氏が、肌で感ずる、山や森や動物の変化の意味は深い。戦後の豊かさによって蝕まれてきた皮肉な日本の姿がそこにある。経済の豊かさが生じさせた陰の部分を今、私たちは見つめる必要があるだろう。番号を振られて嫌だと声を大にして言えない精神の脆弱さも、その陰の部分ではないだろうか。