「 おかしいぞ、小沢氏の対米観 」
『週刊新潮』 2009年12月31日・2010年1月7日合併号
日本ルネッサンス 第393回
民主党の小沢一郎幹事長が絶対的権力者の風貌を見せている。政府の要職にあるわけでもないが、氏は事実上、日本国の政治を動かしている。内政・外交において氏の声はまさしく天の声としての力を発揮する。
強大な力をもつ氏の、2009年12月の韓国での発言には、外国人参政権問題をはじめ、受け入れ難いものが多かった。それらの点については、すでに論じられているが、私は、氏の発言のうち、余り目立ちはしないが、日本の外交政策を左右しかねない重要な要素として、氏が語った対米観に注目したい。ソウル国民大学での講演でこう語っている。
「私はアメリカ人は好きなんですけれども、ややもすると、割合、単純でしてね」「その中でたとえば、(中略)ニクソンさんは、大変な、私はいい政治家だと思っています」
「単純」な国民だと、米国人を卑しめる一方で、ニクソンを「いい政治家」と語る小沢氏の対米観は明らかに間違っている。
米国人は率直ではあっても、決して単純ではない。いわんや国際政治における米国人の考えには、こちらの肝胆を寒からしめる奥深さがある。日米関係の歴史を遡れば遡るほど、そのことは明らかだ。国際政治や安全保障について、これほど洞察鋭い戦略を考え、実行する国は多くはない。米国人の戦略の奥深さと、日本政府の戦略の欠如の余りの対比に、私は脱力感さえ抱く。
古くは1921年、ワシントン会議で、米国は日英同盟を破棄させた。それは、1905年、ロシアとの戦争に勝った日本を米国の将来の敵と見て、日本の力を殺ぐために米国が準備した戦略だった。
アジア進出を考えていた米国は、将来日本と対立し、戦うときがくると見ていた。そのとき、当時の世界最強の国家であった英国と日本が同盟関係を結んでいては、米国にとって厄介だ。中国への肩入れと日本への憎しみが加わって、日英同盟を破棄させ、英国と日本を切り離さなければならないと目論んだ。企みに気が付かなかったのは日本だけだった。
単純なのは日本
同会議で日本は米・英の各5に対して3という艦艇の保有比率を呑まされ、そのうえ、中国の現状維持を守ると合意させられた。欧米列強が中国においてすでに勝ちとっていた特権や領土をそのままにして、日本の新たな中国本土への進出を禁ずるということだ。この後、日本の孤立は決定的となり、歴史が示すように日本は戦争への道を歩み始めた。
日本を敵と見て、日本の孤立化をはかったにも拘らず、米国は日本に対して友好的に快活に、さらに紳士的に振舞い、中国などともはかりながら練り上げてきた「日本外し」の計画を日本に気取らせないよう、万全の準備で臨んだ。笑顔で背中から斬りつけるかのような戦術は、見事に成功した。日本は自らの陥った危機的状況に対して、まったく危機感を抱かなかった。自らが標的になっていることにさえ気付かなかった。
米国も英国も、単純どころではない。単純なのは日本である。
さて、小沢氏はニクソンを「いい政治家」と語ってもいる。どういう意味か。ニクソンは日本をいわゆるニクソンショックに突きおとした大統領だ。1971年7月15日、電撃的に中国訪問を発表した。中国敵視をやめて、味方として取り込む関与政策に華々しく踏み切り、米国のアジア政策を根本的に転換した。そして、日本の重要性は相対的に低められていった。
米国の国益を睨んで決断したニクソンの力量と戦略性に深い敬意を抱くのは自然かもしれないが、日本の国益の観点に立てば、ニクソンを「いい政治家」として持ち上げるのは不適切だ。小沢氏の「いい政治家」という表現は、恐らく氏の語彙の乏しさから出たもので、「優れた政治家」の意味でもあろうか。であるなら、小沢氏はニクソン外交そのものをどう見ているのだろうか。
ニクソンの外交は、国益のためには敵とさえも手を結ぶ現実主義外交である。国際政治は、夢や理想や価値観ではなく、現実の力で動くという信念がニクソン外交の基盤である。敵の片割れだった中国と手を結び、ソ連を包囲したニクソン、その流れをくむ米国の共和党外交は、やがてレーガン・ブッシュの時代にソ連を追い詰め、崩壊させた。このように、ニクソンの戦略は冷戦における米国の勝利と、ソ連の敗北への呼び水となった。この対中関与政策は、いまも米国のアジア外交の基調である。
ニクソンを評価するなら、その現実主義を見習うのではないかと、普通は思う。しかし、小沢氏は、そして氏が影響力を行使する民主党は、現実主義外交には向かおうとしない。
日米安保葬送の年
ちなみに小沢氏は、英国首相だったサッチャーを、「大変なリーダー」と評価する一方で、「あまり好きにはなれない」と退け、鄧小平については言葉少なく、「非常に感銘を受けた」と語っている。
政治家の資質という点でいえば、両氏ともに炯眼の士だ。国際政治の現実の細部が示す意味を見逃さず、大きな戦略を考え出す能力において、いずれ劣らぬ逸材である。
だが、小沢氏はサッチャーは好きになれないが、鄧小平には感銘を受けたという。ひょっとして小沢氏は、自由や民主主義をそれほど大切な価値観だとは考えていないのではないか。だからこそ、社会主義的体質に陥り国民が働く意欲もなくしていた英国を立ち直らせ、強い民主主義の国としての英国を再建したサッチャーは「好きになれ」ないが、同じく強力な国家の土台をつくったけれど、自由も民主主義も置き去りにして強い統制で国民を締め上げ続けた鄧小平に「感銘を受け」るのではないか。
改定から50年という節目の年の2010年、日米安保は、祝賀祭典どころか葬送の年を迎えるとさえ、言われ始めている。普天間飛行場の移転問題をはじめとする日米間の懸案事項への対処の仕方は、紛れもなく鳩山政権の米国離れ願望を示す。そして明らかに、日本は米中の狭間でいよいよ存在感を失いつつある。
かつて、「単純な」日本の指導者は、ワシントン会議で謀られ、孤立へと追いやられたことに気付かなかった。いま小沢氏や鳩山由紀夫首相らは、米中接近の中であのときと同じように日本が孤立へと追いやられつつあることに気付いているだろうか。気付いているに違いない。にも拘らず、異常なほどの米国離れに邁進するのはなぜだろうか。小沢、鳩山、岡田克也各氏が米国に抜き差しならない不信感を抱き、中国に不合理なほどの信頼を寄せているからである。つまり、現執行部の下の民主党がその実態において、社会主義政権そのものだからである。日本をそんな政党に任せておいてよいとは、私は断じて思わない。