「 死後なお激しい金大中氏の毀誉褒貶 」
『週刊新潮』 2009年9月3日号
日本ルネッサンス 第376
8月18日、金大中韓国元大統領が死去、李明博大統領は金氏を国葬で送った。23日午後、ソウル市内の国会前広場で行われた告別式には、李大統領をはじめ各界及び市民代表ら2万人を超える人々が参列した。
その後、棺はソウル市内の自宅や想い出の場所を辿り、ソウル国立墓地に運ばれた。棺は国防部(省)儀仗隊によって、墓所に運ばれ、棺を覆う国旗、太極旗が外された。儀仗隊は太極旗を作法に従い、美しく整った三角形に畳み、金大中氏夫人の李姫鎬氏に手渡した。
午後6時、棺は墓所に掘られた穴に降ろされ、カーネーションなどが献花された後、金氏の古里の生家から運ばれた土がかぶせられ始めた。その時だ。李夫人が「これも遺品だから家に持っていくより故人が持っていくのがよいだろう」と述べて、太極旗を関係者に渡したのだ。太極旗は故人の棺の上に置かれ、棺とともに完全に土で覆われた。
一連の作業が終了したあと、ソウル国立墓地側から遺族に重大なことが告げられた。太極旗を埋葬したのは国旗法違反だというのだ。韓国の国旗法は、「国旗で霊柩を覆うときは、国旗が土につかないようにし、霊柩と一緒に埋葬してはならない」と定めている。
歴代大統領で国葬で見送られた人物は、朴正熙大統領につぎ金大中氏が二人目である。大きな名誉である国葬が、金大中氏の場合、国旗法違反の汚点で締め括られたわけだ。
午後8時すぎ、慌てた遺族側の意向を踏まえて墓が掘りかえされた。日は暮れ、暗闇のなかで、真新しい墓所から国旗が回収された。
「こんな不手際は前代未聞です。しかし、このことは、金大中氏の一生を象徴しています。最後まで、法を犯したということです」
韓国の若手記者が語る。同記者は、李明博大統領が金大中氏に国葬の礼の対処をとったこと自体、韓国の国柄に対する冒涜だと非難する。自由と民主主義が国是であるべきときに、事実上、そうした価値観を踏みにじり、韓国よりも北朝鮮を評価した金大中氏をあがめ奉ることは、韓国の土台を弱体化させる行為だと、手厳しい。
近くでよくよく見れば
金大中氏ほど毀誉褒貶の激しい人物も少ないだろう。評価における落差は、金大中氏の言葉を重視するか、行動を重視するかで生まれてくる。
金氏は、長く日米両国で事実上の亡命生活を送り、朴正熙政権を「言論の自由と民主主義を弾圧した」と非難し続けた。が、政権を取ったときに誰よりも言論の自由を弾圧したのは金大中氏だった。
かつて当欄でも紹介した韓国の言論人、李度珩(イ・ドヒョン)氏の闘いは、大統領権限を最大限に使って言論の自由を締め上げる権力者、金大中氏との闘いだった。
また、2000年6月の南北首脳会談を行ったことで、金大中氏はノーベル平和賞を受賞したが、金正日総書記との会談では北朝鮮に囚われている韓国の拉致被害者については、一言も言及しなかった。
日本人拉致の犯人だと判明していた、当時韓国で服役中の北朝鮮工作員、辛光洙(シン・グアンス)らを、自由の身にして北朝鮮に送還した。
南北首脳会談実現のために、裏金5億ドル(1ドル100円で500億円)を金総書記に渡したことが、後に明らかになったが、同資金は金正日政権を支えはしたが、北朝鮮の国民を支えたわけではない。
金大中氏は南北朝鮮統一の形として連邦政府制度を唱えたが、これはまさに金日成の主張だった。
遠くから眺めれば、金大中氏は人権と民主主義の旗手に見えがちだ。しかし、近くでよくよく見れば、厳しい批判をせざるを得ない。
「韓国の左傾化を促し、北朝鮮の韓国併合に道を開く政策を取り続けた金大中氏を、李明博大統領は本来、取り調べの対象としなければならないのです。しかし、大統領にそのような問題意識はないのです」
こう述べるのは、早稲田大学客員研究員の洪熒(ホン・ヒョン)氏である。
「北朝鮮は金氏の死を間髪を容れず活用しました。弔問団を送る決定は韓国政府ではなく、金大中氏の関係者にだけ伝えられました。李大統領は無視され、軽く扱われているのです。大統領は恐らく弔問団に会いたくなかったと思いますが、弔問団が滞在を一日のばして、粘った。左翼陣営の批判を恐れる大統領は抗しきれずに会ってしまったのです」
李大統領と金己男(キム・ギナム)朝鮮労働党書記ら弔問団は約30分間、面談した。北朝鮮側は晴れやかな笑顔で「すべてうまくいった」とコメントした。
李大統領の北朝鮮政策は、核・ミサイルの開発中止なしには、いかなる経済援助もしないというものだが、今後、北朝鮮は李大統領の政策変更を迫ってくるだろう。そのとき、李大統領は内外の世論を自分の政策の下にまとめきれるか。
金大中外交の功罪
問題は米国のオバマ政権だと指摘するのは、梨花女子大学教授で未来研究院所長の李春根氏である。
「オバマ政権の北朝鮮外交の目的は、明らかに北朝鮮の核開発放棄ではなく、核技術の拡散防止にあると思われます。オバマ大統領は、『北朝鮮がこれ以上、核を開発して挑発を続けてはならない』と発言しました。開発済みの核は認めるという意味です。米国は韓国にも、この路線をのませようとするでしょう」
李春根氏は安全保障戦略論の大家である。氏は、米国がもう十数年も前から、北朝鮮が数十にのぼる核を作り、中東諸国などの国々に拡散していくことは問題だとしていたが、開発済みの核爆弾1~2個なら認めようとしていたと指摘する。
米国のその路線は今日まで基本的に変わらない。背景に、北朝鮮の実力に対する韓国政府の甘い見方があると、氏は警告する。
「8月9日のニューヨーク・タイムズ紙は北朝鮮は戦争を挑発する状態になく、長時間滞空できる程のジェット燃料も不足しているとして、北朝鮮の脆弱さを、韓国政府筋の情報として報じていました。この考え方は誤りです。戦略論の基本原則は楽観的な状況を仮定しないことです」
米国への脅威ではなくとも、北朝鮮の核は韓国や日本にとっては大いなる脅威だ。金正日政権の核開発能力を殺ぐべきとき、北朝鮮の攻めの外交の前に、李政権の無防備が目立つ。
北朝鮮に最大限の譲歩をしてきた金大中氏死去のいまこそ、李大統領は金大中外交の功罪を冷静に調査、分析させるべきなのだ。李政権は、それをせず、検証すべき政敵を国葬で賞賛した。金大中路線つまり、経済支援の先行と核開発阻止の失敗という10年来の敗北の構図に、韓国が三度落ち込むことを意味する。金大中氏の価値観に抗せずに、国旗を泥で汚すだけでなく、韓国の未来を危うくさせてはならないだろう。