「 母牛の目の警告 」
『週刊新潮』 2002年1月17日号
日本ルネッサンス 第2回
それはたじろがずにはいられない目だった。突き放した冷ややかな視線。“なにもわかっていないクセに”とでもいうかのような寄せつけない目の表情。牛舎でお産を済ませたばかりの母牛の寝床には産褥(さんじょく)の跡が残っていた。思わず立ちどまった私の背後から“きつい目だなあ”という酪農家の青年の声が聞こえてきた。
昨年12月、農水省は全国15都道府県の酪農家165戸を、狂牛病(BSE)の原因とされる肉骨粉を与えていたとして監視下に置いた。対象となる牛は5129頭である。これらの牛全頭がいつの間にか最終的に焼却処分にされると決められた。先の牛は、農水省の監視下に置かれた5000頭余りの内の1頭なのだ。
言葉なき牛に、自分の運命が解っているのかは定かではない。しかし、科学的根拠を欠く理不尽な農水行政に憤っているのは、飼い主たちだ。彼らは憤りと落胆と傷心のまっただ中で喘いでいる。実情を知ってほしい、肉骨粉を悪者と決めつけるだけでよいのか、日本の防疫体制の不備とその後の感情的な対応はなぜなのかという想いをこの酪農家たちは「狂牛病問題についての声明」として、農林水産省に突きつけた。暮れの17日のことである。その一人、内田純夫さん(仮名、50歳)が語った。
「オーストラリア、ニュージーランド、米国などは88年から89年にかけて英国からの牛や飼料やくず肉などの輸入禁止に踏み切っています。日本の農水省は何もしませんでした。
国内で販売流通している飼料は安全との大前提で、私たちは使います。肉骨粉の流通は行政の無策の結果であり、使った酪農家が悪いのではありません。けれど、私たちは今や悪者扱いです。同じ村落の仲間からさえも全部焼いてしまえ、などと言われます。酪農家として頑張ってきた誇りを、全否定された思いです」
内田さんは酪農家の2代目だ。零細だった牧場の拡大は純夫さんが父親と一緒に働き始めてからだ。
「帰省する度に親父の背中が小さくなっていきました。私が戻らなければ親父は離農するかもしれない。苦労した姿を見て育ちましたから、それではかわいそうと想いました」
後継してからも10年ほどは出稼ぎをする経営の苦しさだった。4~5時間の睡眠で早朝から夜中まで働く日々が続いた。その中で子牛を少しづつふやしていった。
いま内田さんの牧場には百数十頭の牛がいる。それだけでなく哺育ロボットをはじめ技術と資本集約型の酪農を築きあげ、所得率約30%を達成した。所得率とは、全収入から全コストを引いて手元に残った収入の割合である。30%は恐らく全国でも最高水準だ。
米国のウィリアム・マイナー農業研究所国際普及事業担当の副学長伊藤紘一氏は、酪農家の毎日の仕事は生命を科学の目で見て学ぶことであると強調する。
「米国をはじめ酪農に成功している国々は、生命に対して見事なまでに科学的アプローチをとっています。同じ科学的、論理的視点で畜産行政も司っていますから、あれだけの畜産王国でありながら、BSEを水際で食いとめたのです」
伊藤氏は、新しい技術に挑戦し、学びと改良を重ねて経済的にも成功してきた内田さんのような人材グループが、将来の日本の酪農を背負っていく人々だという。だが、そんな夢も砕かれそうだ。内田さんは、百数十頭の牛の半分弱に肉骨粉入りの飼料を与えた。BSEの症状などなくても、これらの牛全てが薬殺され検査に回される運命だ。
「ほとんど将来を奪われたような気分です。経済的にも、特に精神的に、なぜこれ程のことをされるのかと思います」
内田さんが語るのはざっとこういうことだ。家畜共済の獣医師が来て内田さんの家の庭先で牛を薬殺するというのだ。内田さんの牧場の牛は、全て夫妻が手塩にかけて育てた。子供同様に共に暮してきた牛を、なぜ庭先で、飼い主の目前で薬殺するのか。こんな残酷なことが、一体どんな法的科学的根拠で許されるのか、と内田さんは烈しく問うた。こらえきれずに息を止め、涙を流す。「無念の一言しかありません」という言葉が迫ってくる。
牧場で生れる子牛の数は、大きな酪農家であればあるほど多い。農家は一部を手元にとどめ一部を売ることで頭数をコントロールする。売られていく牛は初めて受精した若い母牛の初妊牛や、老廃牛と呼ばれる10回以上もお産をした高齢の牛が多い。これまでは各々50~60万円、10~15万円で売られてきた。
が、監視下に置かれている今は、勿論、牛を売ることは出来ない。だが、子牛は次々と生れ、乳の出の悪い高齢の牛の飼料代は高くつく。牧場の牛はタイミングよく世代交代を進めなければ経営は成立しない。だが、肉骨粉を食べさせたというだけで屠場に持っていくことさえ許されない。地区のレンダリング場が処理してくれるはずが、ここもしてくれない。こんな事情が重なって地区の家畜共済の獣医師が出向いては庭先で薬殺していくのだ。
「立ち遅れない程のショックです」
と、大の男の内田さんが大粒の涙と共に深く息を吐いた。
内田さんのケースを含め、これまでに処分された牛は、検査の結果、全てBSEには感染していなかった。その牛の亡骸(なきがら)の焼却場までの運賃、1頭につき7000円は、農家の負担である。
ある地方自治体の農業技術指導員が語った。
「BSEは伝染するものではありませんから、陽性の牛が出たとしても全頭殺処分にする必要はないのです。ところがいま日本でおきているのは、肉骨粉を一時期与えたというだけで、陽性牛が出ていなくても、全頭殺処分にする、保証として牛の代金の8割を補助するという類の情報が、政治家経由で流されてきます。かといって政府から正式な通達があるわけでもありません。行政の現場は混乱の極みです」
昨年日本に入ってきた伝染病の口蹄疫などは厳しいコントロールが必要で同じ牧場の牛を全て処分することがさらなる広がりを防ぐ鍵となる。だが伝染性のないBSEへの対処は完全に異なるものであるべきなのだ。政治家の発言は、ひたすら消費者にこびた感情的な発言だととられても仕方がない。
伊藤氏が語る。
「世はあげて肉骨粉が悪いという流れです。しかし悪いのは異常プリオンに汚染された肉骨粉の日本への流入を防げなかった政府の無策です。
産業廃棄物としての肉骨粉は、ビール粕、豆粕などと同じく有用な飼料です。その点を混同すると、真の責任の所在が見えなくなります」
いま監視下に置かれている酪農家は、自らが肉骨粉を使用したと自己申告した人々だ。だが、これまでに陽性と判断された農家は、全員、使用していないと主張している。
となれば、この問題の解決は、自己申告した農家とその牛の閉じ込めではかられるものではないことになる。感染経路も特定しようとせず、現場の酪農家を悪者にする論に騙されてはならない。あの産褥の母牛のきつい目は、恐らくそう警告していたに違いない。