「 “保有”するが“行使”できない集団的自衛権 この呪縛を即刻解き放て 」
『週刊ダイヤモンド』 2001年11月3日号
オピニオン縦横無尽 第419回
佐瀬昌盛氏の『集団的自衛権』(PHP研究所)が非常におもしろい。米国へのテロ攻撃に対処するため、日本は新法をつくり、新法を根拠として自衛隊を派遣することになったが、本来なら自衛隊は集団的自衛権に基づいて派遣されるべきものだ。
だが周知のように、日本国政府の集団的自衛権についての憲法解釈は「主権国家である我が国が国際法上、集団的自衛権を有することは当然であるが、しかし、憲法上、その行使は許されない」というものだ。「集団的自衛権を有」していても、その権利の「行使は許されない」。権利はあるがその権利を使ってはならないという破綻した論理なのだが、佐瀬氏はこのような主張は1972年以降、特に81年以降の政府解釈によって定着していったことを指摘する。では、それ以前の論、および国際社会の論はどうだったのか。
まず日本人の大好きな国連である。国連が国連憲章51条で、加盟国すべてに対し個別的、集団的自衛の権利を「固有の権利」として認めていることはすでに知られている。
佐瀬氏は個別的自衛権と並べて集団的自衛権をも国家の「固有の権利」として認めた点に国連憲章の画期性があると強調する。固有の権利は自然権に等しくおのおのの国家が当然の権利として備えているものだ。つまり国際社会では、今日、集団的自衛権は国家の固有の権利、自然権として認められている。この点で突出して異なる立場をとっているのは、おそらく日本のみである。だが日本でも、集団的自衛権は当初から曲解されていたのではない。
日米安保条約改定に踏み切った岸信介は「いっさいの集団的自衛権を持たない、憲法上持たないということは言い過ぎ」「他国に基地を貸して、協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている」などの国会答弁を行なった。
また当時の防衛庁長官赤城宗徳は、「憲法第9条によって制限された集団的自衛権」と答弁している。
佐瀬氏はこれらの答弁を引用しつつ、岸内閣は、集団的自衛権については現在の「憲法上行使不可」という政府解釈とは異なり、憲法上の制限はあるが、その権利は「保有」していたとの主張だったと説明する。勘のよい読者はすでに閃(ひらめ)いたことだろう。岸内閣は集団的自衛権は制限されているものの「憲法上、保有」しているとの立場であり、現在の政府の「国際法上保有」しているとの立場とは異なるのだ。
岸内閣の考えは、煮つめていけば、制限されてはいるが、行使することもできるということだ。だが、日本政府はいつの間にか「憲法上」保有していた集団的自衛権を「国際法上」の保有にすり替えた。なぜか。集団的自衛権の行使を不可とするためである。
国際法上も当然の権利として認められ、憲法に照らしても保有している権利を使わせないようにするためには、このすり替えが必要だった。そこで「国際法上保有」「憲法上行使不可」の二分法論が出てきたと佐瀬氏は指摘する。氏の書を読むと、そのすり替えの実行部隊は内閣法制局の官僚であることがよくわかる。たとえば、81年に政府の答弁書をまとめた時の法制局長官角田禮次郎である。または、70年代初頭の長官だった、高辻正己である。
佐瀬氏のいう「騙しに近いテクニック」でつくられた歪(いびつ)な論が今日に至るまで日本を縛り続けている。この呪縛を解くためには、論争を時系列で遡(さかのぼ)り、これまでにどんな騙しの論が展開され、事あるたびに、私たちの国が最も重要な問題から、どれほど逃げ続けてきたかを問う必要がある。
新法で自衛隊を派遣して一件落着ではないのだ。この際、集団的自衛権を正面から論じ、憲法改正にも取り組む必要がある。