「 安倍総理、緑したたり水清き丘に 」
『週刊新潮』 2023年8月10日号
日本ルネッサンス 第1060回
7月最後の日曜日早朝、山口県下関市の下関グランドホテルを出発して、長門市油谷(ゆや)のお墓に眠る故安倍晋三総理を訪ねた。
下関市から車で1時間半、国道191号線で日本海を左に見ながら北上していく。出発するとすぐに彦島が見えてきた。米英仏蘭と戦い敗れた長州藩に英国が割譲を要求した土地だ。海上の離れ小島を想像していたが、とんでもない。関門海峡を見渡し、下関の首根っこをおさえる要衝である。しかも広い。かつてここには5万人以上が住んでいた。
敗戦の処理を巡って英国外交団と交渉したのは松下村塾の塾生、高杉晋作だった。若き晋作は藩の代表に抜擢されたものの、箔付のため家老の宍戸備前の養子に仕立てられた。英旗艦に乗りこんだ晋作は、黒い烏帽子で正装し、真っ白の絹の下着をまとっていた。
通訳のアーネスト・サトウは純白の下着に25歳の晋作の、死を決意した強さを読みとる。彼は降伏の使節であるにもかかわらず、何者をも恐れぬ魔王のように傲然と構えていたと、サトウは書き残している(奈良本辰也『高杉晋作』中公新書)。
安倍総理は戦後の対中外交でただひとり、中国に位負けしなかった宰相だ。敗戦処理に臨む晋作の誇り高い姿は自身と祖国に対する信頼から生まれた。安倍総理の対中外交姿勢と重なる。
彦島を要求されて晋作はこう答えている。天照大神のお孫の神様、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨、さらに3代下った神様の東征、遂にその神が初代神武天皇となってわが国日本を統治なさった。古事記の描いたわが国の歴史を説き、彦島は日本国の神聖なる領土であり、神聖なる日本の国土は寸土も割譲できないと論陣を張った。あの地を英国に取られていたら、その後わが国はどうなっていたか。晋作が守り通したことの有難さを忘れてはならない。気迫と覚悟で守られた彦島を見やりながら強い陽光の下、海の色の深さに改めて息をのんだ。
日本国の古里
土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアムの前も通った。わが国には1万年以上前から縄文人が住み、やがて弥生人も豊かな生活を始めた。ほぼ完全な形で見つかったその時代の人骨300体分を、ここにおさめているそうだ。紀元前から日本各地に穏やかで豊かに暮らす人々がいたのだ。
特牛(こっとい)という珍しい地名の地域や、角島大橋などの間を抜けていくと穏やかな湾が広がる。油谷湾だ。夏の日射しを受けた藍の海。光が放たれている。安倍総理がよく身につけていた背広の色だ。明るく光る海、まるで安倍氏の澄み切った心のようだ。
車は左折し、このあたりから細い道を走る。両脇は平屋や2階建ての民家、広い庭、夏の花、海に注ぐ川の流れ、青々とした水田、小高い山々。緑はしたたり水は清らかな日本国の古里だ。
細い道はやがて上り坂となる。上ると平らな空間がひらけた。安倍家三代の墓所だ。背の高い木々の陰に駐車し、大きな石段を上がると、これまた大きな飛び石が続いた。右手に石をくり抜いた手水鉢があり、溢れんばかりの水をたたえていた。大輪のあじさいが水を欲しがっており、私は掌に掬って撒いた。
記帳ノートには幾頁にもわたる墓参の記録が続いていた。記帳所から安倍家のお墓を見ると、男性が一人、花を供え、墓石を撫でていた。佇むその背中に、安倍総理への万感の想いがにじんでいた。今、この広い墓所には、その男性と、私たち一行数人がいるだけだ。けれど、日本中に、さらに世界中に、同じような想いで安倍氏を偲んでいる人々がいる。惜しみ、敬愛している人々だ。まだ涙を止めきれなくとも、今や、その志を継ごうと決意している人々だ。
私たちは会釈を交わし、少し会話した。東京に住む安倍総理の大学時代の親友で、「一人でいるのは寂しいだろうと思って……」と仰っていた。
お墓には祖父の安倍寛氏、父の晋太郎元外相が共に眠る。昭恵夫人は納骨の日に、語っている。「松陰先生の思いが門下生によって後世に残ったように、多くの若者たちが主人の志を継いでいく決意を語ってくださったことをありがたく思います」と。墓参前日にお目にかかったときも同様に仰っていた。
墓前に跪いて私は総理に私の気持ちについて前向きの報告をした。国難の中で、私は怯むことはしない。熟考し、最善と決めたことをやり抜く。失敗しても諦めない。志を持ち続けさえすれば、達成に至る迄に、何があろうと乗り越えられる。そのための努力を惜しまない、と。
私たち国民には安倍総理のような力はないけれど、一人一人が志を立て日々、考えを確かめ合っていけば、必ず辿り着ける。大切に思う価値観も日本も守っていける。志さえ定まれば、道は拓ける、と。
それにしてもこの暑さの下、安倍総理はお墓の中で喉が渇いていらっしゃるのではないか。そのことが最後までとても気にかかった。
昭恵夫人の言葉
お墓で暫くすごし、私たちは萩に向かった。吉田松陰先生の松下村塾、松陰先生をお祀りする松陰神社を訪ねた。8畳一間の松下村塾、狭すぎて後に塾生たちが自力で10畳半の続きの間を建て増ししたという逸話から、塾も神社も簡素で小振りな場所を想像していたら、広大な構えの中にそれはあった。
萩の人々の想いが松陰神社を創り、今の形にまで大きくし、維持しているのだ。松陰生家の杉家のすぐ隣りにある塾の座敷に上がる機会を得た。上田俊成名誉宮司の講話を聴きながら、畳での正座を続けていると、そこに集った92人ともいわれる塾生への松陰先生の思いが聞こえてくるようだった。松陰先生は晋作に多くの手紙を書き残している。或る時、晋作は士たる者の死すべき所はどこかと問うた。松陰先生はこう答えている。
「死は好むべきにも非ず、亦悪(またにく)むべきにも非ず、道盡(つ)き心安んずる、便(すなわ)ち是れ死所」
全力を費やして辿り着いたところが死所だというのだ。安倍総理はどうだったかと、思う。この1年、私は安倍氏の死の瞬間について考えていた。安倍総理の死を巡って暗殺犯は他にいるなどさまざまな臆測がある中、『正論』9月号で衆議院議員で医師、救命救急のプロである松本尚氏が書いていた。
「鎖骨下動脈が半周以上損傷され右胸腔内に大量の出血が生じれば、脳循環を維持できるだけの血液の拍出量が得られなくなるのに30秒もかからない。(中略)安倍元総理の暗殺事件に関しては、銃弾による解剖学的臓器損傷と、これによる大量出血による心停止が医学的な事実である」
昭恵夫人の言葉が想い出される。「主人は自分が死んだことも知らないと思います」。ほぼ即死だったのだと改めて思う。
「道盡き心安んずる、便ち是れ死所」。安倍総理の67歳の生涯も、ここで盡きた。精一杯生き、戦い抜いて盡きた。事実を受け入れることで、私の心の中の解けない塊りがひとつ解決された。