「 偉人・松陰を育てた家庭と父 」
『週刊新潮』 2021年12月30日・2022年1月6日合併号
日本ルネッサンス 第981回
過日山口県を訪れた際、地元の志篤い人から『吉田松陰の思想と生涯』という本を戴いた。松陰研究者で知られる、今は亡き玖村敏雄氏が山口銀行で行った6回の講演を、同行が行員職員の学びの目的で上梓した。心に沁み入る一冊だった。
周知のように、松陰が松下村塾で教えたのはわずか2年と3か月間だった。この間に身分の差を超えて約60名が集った。松陰の下で学んだ士分出身の主な人物には高杉晋作、久坂玄瑞、萩の乱で首を切られた前原一誠、司法卿(大臣)になった山田顕義、中谷正亮などがいる。
足軽出身者としては池田屋事件で重傷を負い、長州藩邸の門まで帰りついて自刃した吉田栄太郎、禁門の変で戦死した入江杉蔵、初代総理大臣となった伊藤博文、日露戦争当時の参謀総長、山縣有朋、また品川弥二郎、野村靖も維新の大業に尽した。
士分でも足軽でもない塾生に魚屋の子で画家の松浦松洞がいる。松陰が座っている肖像があるが、これは松洞が描いたものだという。
ちなみに松下村塾の最初の塾生は医者の子の増野徳民だった。次の塾生は杉家(松陰は養子として吉田家に入ったが、ずっと生家の杉家で暮らしていた)の隣家の吉田栄太郎で、彼のことは前述した。三番目の入塾者がこれまた前述の松浦松洞だ。
玖村氏は、松下村塾の最初の塾生の3人が医者、足軽、魚屋の子で、士分ではなく皆平民であったことの意味を説く。当時の日本、毛利藩の実情を見れば特筆すべきことなのだ。江戸時代の日本には士農工商の身分制度があり、士の子弟は藩校で学び、平民の子は寺子屋で学んだ。毛利藩にも藩校として萩に明倫館があった。
しかし、松陰は身分の上下など気にせず、全ての人を一人の人間として見た。ここで想い出すのが明治新政府誕生と同時に発布された五箇条の御誓文である。「広く会議を興し、万機公論に決すべし。上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし。」
まさに維新を貫いた思想がここにある。約190年前に生まれた松陰は明治維新の10年前に処刑されたが、彼は時代を先取りして見事に実践していたのだ。
なぜ学ぶのか
松下村塾で学んだ約60名の中から歴史に名を残した人々が二十数名もいる。松陰の住んでいた村に特別に才能ある人々が集中して生まれていたということか。そうではないだろう。玖村氏は日本のどの村にも人材はいて、よき師に巡り合うことによって人材はその持てる天分を磨き、一廉(ひとかど)の人物になれるのだと言っている。つまり、松陰はよき師であったということだ。では、なぜ松陰は人を育てることができたのか。それは一にも二にも松陰の育った家庭にあったと玖村氏は書いている。
松陰は幕府がアメリカと和親条約を結んだときペリーの艦でアメリカに密航し学びたいと念じた。下田港近くで機を窺い、小舟で漕ぎ出しついにペリーの艦によじ上ったが願いは受け入れられなかった。松陰は密航を企て国禁を犯したとして自ら名乗り出た。結果として国許に送られ父杉百合之助に引き渡された。安政元(1854)年10月、松陰数え年で25歳の時のことである。ちなみに父百合之助は「百人中間頭兼盗賊改方」、つまり萩の警察署長だった。
事情を端折(はしょ)って言えば松陰は野山獄に入れられる。そこには士族11人がすでに入っていた。獄中で松陰は本を読んだ。「感激すると涙をふるって読む、腹が立つときにはまなじりをあげ激越な調子で読む、嬉しいときは声をはずませ膝を打って読」んだ。警察署長の坊ちゃんが獄にあって少しもめげず、読書に没頭し楽しんでいる。11人も感化され獄中座談会が始まった。
皆が問うた。獄外に出ることも望めないのに、なぜ学ぶのか、と。松陰は答えた。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」というではないか、と。人間としての道がわかればそれでよいではないか、と。一日この世にいるのなら、一日いた甲斐のあることをしたらよい。たとえここから一生出られないとしても、人間の道に背いて死ぬか、人間の人間たる道を踏んで死ぬか、覚悟次第でどちらにもなれる、と。
その内に野山獄の司獄、つまり刑務所長も松陰の人柄に打たれて、夜は灯をつけてはいけないとされていた規則を改め、夜も灯をともし、筆も墨も紙も自由に使わせた。そして或る日、彼もまた松陰の弟子になりたいと申し入れた。
獄中生活をこのように明るく積極的に変えることができたのには松陰の人柄がある。どんな時にも自分本来の性格を貫き、周囲の詰まらない状況でへこまされたりはしない自立性がある。立派である。しかし、松陰のそのような在り方を支えた力を見逃してはならない。松陰を支えたのは家庭の力、家風であると玖村氏は説いている。
うらやましいほどの家庭
松陰の父は前述したように警察署長だ。それがその息子は国禁を犯してアメリカ密航を企てた。罰せられて帰り、野山獄に入れられた。普通なら怒ったりするだろうが、父も母も兄も妹も叔父も、誰も怒ってなどいない。皆が皆、松陰のよき理解者として彼を支え続けている。
たとえば「野山獄読書記」を見ると、ひと月に松陰が読んだ量は大体40冊前後、1年間で約500冊だ。読書記では、松陰が野山獄に入った安政元(1854)年10月24日から年末までに106冊、安政2年に480冊、同3年505冊、同4年9月までに346冊となっている。
これを兄梅太郎は近郷近在の蔵書家を訪ね歩いて手に入れるのである。或いは江戸に注文して写本を作ってもらうのである。梅太郎は明治の終わり頃まで存命だったそうで、松陰の望む本を入手し次々に供給するのがひと苦労だったと語っている。
それだけではない。松陰が野山獄から杉家に戻されたとき、父、兄、叔父の3人が松陰の弟子となった。松陰は獄で11人を前に時事、政治、人生、教育などを講義していたが、その延長を自宅で始めたのだ。こうして名著『講孟余話』が生れた。
孟子の講義のほかに、父も兄も日を決めて経済要録、新論、日本外史などを一緒に読んだ。松陰は家から一歩も出られない身であり、退屈だろう。何とか皆でいたわってやりたいという愛情である。母も妹も親族の女性達も「婦人会」を創って松陰を中心に読書会をした。
松陰の家庭は本当にうらやましいほどの家庭だ。これは父の力だと、玖村氏は書いている。人物を育てるのは家庭なのである。人間を身分や富で判断するのではなく、その人の人間としての特性に素直に着目することのできる松陰の人間性を育んだのが、愛情ある家庭だった。家庭、家風の大切さを松陰の短い30年の人生から学んだ一冊だった。