「 大平さんは「薬害エイズ」で闘い抜いた 」
『週刊新潮』 2020年7月9日号
日本ルネッサンス 第908回
長年の友、大平勝美さんが亡くなった。亡くなる2日前、氏を自宅に見舞ったとき、苦しそうではあったが明確な意志表示をして下さり、私は安堵した。大平さんが痛みを訴えた胸のあたりを優しくさすっていた女医さんがベッドサイドで語った。
「国立国際医療研究センターに入院していらしたとき、大平さんは痛み止めの薬は要らないと、拒否し続けました。薬で頭がボーッとすると、言い残しておかなければならないことがまだ沢山あるのに、言えなくなるからって……」
大平さんはエイズウイルス(HIV)に汚染された非加熱濃縮血液製剤(以下、非加熱製剤)を血友病治療薬として投与されて薬害エイズに感染した。
米国のCDC(疾病管理予防センター)は1983年3月、血友病患者のエイズは非加熱製剤が原因だと正式に発表し、製薬企業にウイルスを死滅させた加熱濃縮血液製剤(以下、加熱製剤)への転換を促した。
他方、日本での動きは極めて遅く、加熱製剤が承認されたのは85年7月になってからで、米国より2年4か月遅かった。しかも、加熱製剤承認後も業界大手のミドリ十字を中心に、製薬企業側は大量に在庫のあった非加熱製剤を優先して患者に使用させた。また、加熱製剤開発が一番遅れていたミドリ十字に配慮する形で、加熱製剤承認に必要とされた治験が調整された。つまり、承認を遅らせたということだ。
結果、前述のように2年4か月が消費され、その間に多くの血友病患者がHIVに感染した。国と製薬企業の責任を問うべく患者原告団が提訴したのは自然の流れだった。
提訴は89年10月27日、原告被害者67名・61家族は全員匿名という裁判史上初の事例だった。
自らに迫る危機
この原告患者の精神的支柱のひとつが大平さんだった。だが、最初から大平さんが裁判や、関係者の責任追及に熱心だったわけではない。彼は血友病という出血し易い病気を抱えてはいたが、穏やかで幸せな結婚生活を営んでいた。かねて妻と約束していた初めてのヨーロッパ旅行に出かけたのが83年4月。CDCが血友病患者のエイズの原因は非加熱製剤だと正式発表したが、日本の厚生行政は全く動かず、血友病専門医の多くも患者に非加熱製剤を投与し続けていた時期だ。
大平さんは旅行に出る前の健康診断で出血予防として非加熱製剤750単位を1本打たれた。旅行中は携帯が便利な非加熱製剤を使用するよう指示されて「22~23本持たされた」。大平さんは、これを毎日、2回、出血予防のために打った。
だが、それ以前の大平さんはクリオプレシピテート、クリオと略称される血液製剤を使用していた。クリオは単独のドナーの血液から作られるために、肝炎ウイルスなど感染症の危険を防ぎやすかった。無論エイズに罹る危険性もなかった。他方、濃縮血液製剤は2000人から2万5000人にも上る不特定多数の、売血由来の血液成分をプールして製造したものだ。その分危険は、当然大きくなる。
妻と共に沢山の楽しい思い出を作って帰国した途端、氏は「アメリカ由来の非加熱製剤で感染の危険」「致死率極めて高い」「日本では血友病患者に感染の危険」などと報じた「毎日新聞」の記事を目にした。
「どうしよう、沢山使っちゃったよ」。大平さんは自らに迫る危機を恐れずにはいられなかった。不安が高まる中、同年6月、厚生省はエイズ研究班を設置し、安部英氏が班長に就任した。
それから約2年後の85年夏、大平さんは帝京大学で副学長に昇進していた安部氏を訪ねた。安部氏は製薬企業5社、化血研、トラベノール、カッター、ヘキスト、ミドリ十字で加熱製剤の治験代表世話人を務めていた。
大平さんが安部氏に質したかった重要点はひとつだった。米国より大幅な遅れで日本は全社同時、85年7月にようやく加熱製剤を承認した。なぜ開発の早い順に承認してもらえなかったのかとの問いは安部氏の責任追及でもあった。
安部氏訪問の約ひと月前に、大平さんは化血研を訪ねている。化血研側は「実はもっと早く加熱製剤を供給したかったが、開発の遅れていたミドリ十字に合わせるために遅くなった」と語っている。トラベノール、ヘキストの両社も加熱製剤供給に向けての準備が進んでいた。
ミドリ十字以外の社の状況を踏まえ、大平さんはズバリ安部氏に問うた。
「トラベノールなどはもっと早く加熱製剤を供給できたのに」、と。
安部氏は自らの責任を認めることはなく、「だから君たちとは会うのがいやなんだ」と返している。
大平さんを含む被害患者が国と製薬企業5社を提訴したのは、それから更に4年余り後のことだ。
賢い患者
右の訴訟とは別に、薬害エイズ事件に関連して安部氏は業務上過失致死罪で刑事告訴され、一審で無罪を勝ち取り、控訴審中に死去した。
他方、安部氏は名誉棄損で、私及び毎日新聞を訴えたが、いずれも最高裁で安部氏敗訴が確定している。
薬害エイズ事件に関して司法の場で展開された闘いのいずれにおいても、大平さんの存在は大きかった。彼は果敢に問題提起し、詳細な証言を残した。厚生省、製薬企業、安部氏を筆頭に多くの専門医と真剣にわたり合った。とりわけ厚生省の血液行政に関しては、最後まで外国由来の売血に頼る日本の現状に警鐘を鳴らした。米国で非加熱製剤が使われなくなった83年以降、米国は日本向けに売血由来の非加熱製剤をつくり続け、わが国は買い続け、悲劇が起きた。そのような事態を放置してはならず、日本国民の使う血液製剤は国内血で賄えというのは正論である。
全国の患者さんに対しては、一人一人の状況を「わが事」と受けとめ親身に助言した。持てる情報全てを、仲間の患者に教え、賢い患者になることの重要性を説いた。世の偏見に打ちひしがれる患者には、闘う勇気を失ってはいけないと元気づけた。
大平さんと最後に食事をしたのは去年の12月23日だった。例年春や夏に我が家で手料理を囲んでいたのが年の暮れになった。気ぜわしいが、年をまたぐ前にとにかく会おうと決めて例年のように我が家に集った。九州から加わった人もいた。帰りしなに大平さんが笑って言った。
「今日はタイ風カレーを期待してたのに!」
暮れのことで、私は時間のかかる料理を避けたのだ。
「ああ! ごめんなさいね。次はきっちりタイ風カレーでいこうね」
私たちは笑って別れた。そしていま、今生での本当の別れが来た。
大平さんは入院中、厚労省の会議にリモートで2時間参加したという。最後まで闘って燃え尽きた。立派で心優しい友人を、私は忘れまい。