「 日本人がキリスト教と出会った戦国時代 私たちは真の歴史を知っておくべきだ 」
『週刊ダイヤモンド』 2019年3月2日
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1269
三浦小太郎氏が『なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』(ハート出版)で、戦国の武将たちが目指した国造りの理想と苦労をじっくり描いている。
豊臣秀吉らのキリスト教排斥を理解するには、日本人がキリスト教と初めて出会った戦国時代より前の中世の日本の実態を知らなければならないとし、三浦氏は当時の日本を「乱暴狼藉の時代」と定義する。室町時代から戦国時代は、中央権力弱体化と個人の自立と都市共同体の自治確立に向かう時代であり、自由と変革の時代だからこそ、浄土真宗、日蓮宗、禅宗など新しい信仰が生まれ、人々はキリスト教伝来もその次元で受け入れたという。
「乱暴狼藉」の実態を、三浦氏は上杉謙信を攻めた武田信玄の事例を通して描いた。農民も含めた武田の雑兵たちは、敵を倒せば刀や武具を奪い、馬や女性などを「乱取」した。武田領内で待つ雑兵たちの家族や村人は、略奪品によって豊かになった。
これが社会の実態だったのであり、「戦国時代、大名同士の戦争を(中略)傍観者的に眺めていたという、よくある歴史小説的な風景は、現実とはかけ離れたものだった」「戦場に略奪に赴かねば飢餓に襲われるような危機的状況が、戦国時代には日常として存在していた」のであり、このような状態を改め、平和で秩序ある国を目指したのが織田信長や秀吉だった、それを阻んだのがキリスト教伝道者だったという指摘はそのとおりであろう。
日本と西洋の最初の出会いはポルトガル人だった。彼らは恐ろしい人々だ。アフリカ西岸のプラヴァで、ポルトガル兵は、住民の女性の銀の腕輪が抜き取れなかったため腕ごと切断した。その数800に近かったという。
貿易と共にキリスト教も伝来した。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの長崎上陸は1563年だ。フロイスらのイエズス会は日本をキリスト教国にするには大名による上からの改宗運動が重要だと考え、まず大名を改宗させた。しかしこう書いている。
「布教事業がこのように進展した後にもまた、寺社を破壊し絶滅するについてなお困難があった」
神道や仏教を絶滅させたいと切望したフロイスは伊勢神宮について1585年8月27日の書簡に書いた。
「我らの主が彼(キリシタン大名で伊勢の国の領主になった蒲生氏郷)に、天照大神を破壊する力と恩寵を与えるだろうと、我らは期待している」
キリシタン大名で肥前(長崎県)の城主だった有馬晴信の領地の小島に、多くの仏像が置かれた洞窟があり、人々の礼拝の対象になっていたことについて、フロイスは、「悪魔は何年も前から、この恐ろしくぞっとするような場所を、おのれを礼拝させるための格好の場として占有していた」とも語っている。ある宣教師は日本人の信者に、「あなたの罪の償いとして考えられることの一つは」「通りすがりに最初の人としてどこかの寺院を焼き始めることです」とそそのかしている。
秀吉は天下統一を成し遂げた1590年に日本全土の平和構築に向けて、(1)浪人停止令、(2)海賊停止令、(3)喧嘩停止令を出した。その2年前には武器なき社会を目指して刀狩りも行った。
平和と秩序を目指す秀吉が宣教師らに憤るのは当然だ。秀吉は1587年6月、大名は領国内でキリシタン門徒に寺社を破壊させてはならない、大名は領地を一時的に預かっているのであり、天下の法に従わねばならない、宣教師たちの仏教寺院攻撃も、破壊することで信者をふやそうとするのは許されないとして、キリシタンを「邪法」とし、宣教師たちに20日以内の退去を命じた。
彼らは多くの日本人を奴隷にし、国外に売りとばしもした。日本をキリシタン弾圧で批判する前に、私たちは真の歴史を知っておくべきだ。