「 こんなに違う皇室と清朝帝室の姿 」
『週刊新潮』 2019年2月21日号
日本ルネッサンス 第840回
加藤康男氏の『ラストエンペラーの私生活』(幻冬舎新書、以下『私生活』)は、私たちがいま「中国」と呼ぶあの大きな国を統治してきた権力者、彼らの価値観や倫理の、余りにも日本と異なる実態を描いていて興味が尽きない。
日本の皇室、さらには社会の実権を握りながらも皇室を権威として敬う政界や経済界の日本人と、漢民族か否かを問わず、清朝、国民党、中華人民共和国を統治した・皇帝・と彼らを取り巻く大陸の人々の価値観は水と油である。
映画にもなった清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)について知るのにとりわけ重要な書籍は、溥儀の家庭教師を務めたスコットランド人、R・F・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』だろう。
日本語訳は当初岩波文庫から出版されたが、これは渡部昇一氏によって「岩波文庫の名誉を害する」「非良心的な刊本」と断じられた。翻訳の間違いに加えて、「政治的意図」と思われる編集で、ジョンストンの意図が正しく伝えられていないからだ。日本の溥儀及び満州国との関わりについて事実に迫りたい人は、中山理氏が訳し渡部氏が監修した祥伝社の上下2冊『完訳 紫禁城の黄昏』を読むのが良いと思う。
それでも溥儀についての真実の全容が中々見えない中で、加藤氏が幾つもの驚くべき事実を『私生活』で描いた。一言で言えば、溥儀は節操を欠く人物だった。彼の一生を翻弄した苛酷な運命を勘案すれば、致し方ないことであったかもしれないが、彼は運命の節目節目で幾度か驚くべき変身を遂げている。
満州国皇帝として即位した溥儀は1935(昭和10)年に、また40(昭和15)年に日本を訪れた。昭和天皇と会い、母宮節子(さだこ)皇太后のあたたかいもてなしも受けた。
日本の皇室の在り様は紫禁城における謀略渦巻く世界とは別天地だったに違いない。初の来日で溥儀は皇室に強い憧れを抱き、「日本の天皇家と一体となることを自ら希望し、天皇家の祖神である天照大神を満州国帝室の祖神とすることを望んだ」(『私生活』)。
溥儀の変節
無論、日満一体化で皇室と融合すれば、関東軍の溥儀への姿勢はより恭しくなるとの期待もあっただろう。それにしても祖国の神を差し置いて日本の皇祖神を戴きたいとの発想は理解し難い。満州国は憲法も国会もない生まれたばかりの国家だったが、目指すところは五族協和の下の王道楽土だ。そこに日本の天照大神を祀るのは無理がある。
そもそも溥儀の夢は大清国の皇帝に戻ること、復辟(ふくへき)だった。日本近現代史研究家の波多野勝氏は『昭和天皇とラストエンペラー』(草思社)で、溥儀は日満一体化を主張することで、自らの夢、復辟を諦めたことになったと強調している。
加藤氏は溥儀の変節を克明に辿った。ソ連に抑留されたときにはソ連賛歌を口にしソ連女性との結婚を望んだ。毛沢東の中国に身柄を移されたときには、またもや豹変した。状況次第で立場を変える溥儀の人生が、多くの裏切りに満ちていたのは致し方ないかもしれない。彼は肉親をも信じることができなかった。
溥儀初来日の35年当時、その2年前に日本では皇太子(今上陛下)が誕生し、国全体が明るい雰囲気に包まれていた。満州国に戻った溥儀は、自分に子供がいないことを気にし始めた。実弟の溥傑(ふけつ)が嵯峨侯爵家の長女、浩(ひろ)と結婚すると、「溥傑に男子が生まれたら、自分は殺される」と弟宮一家を恐れるようになった。後嗣なき自分は、跡目相続を狙っているに違いない弟宮夫婦に命を狙われていると、本気で恐れた。
なぜ彼には後嗣がなかったのか。溥儀が暮した紫禁城には大勢の宦官や女官が仕えており、溥儀は宦官相手の放埒な性や、多数の女官相手の爛熟した性にふけった。これまで明らかにされなかったこうした私生活を、具体的に描いたのが加藤氏だ。
64(昭和39)年、中国共産党に指示されて、溥儀は自伝『わが半生』を書いている。同書は中国当局の描きたい歴史であり、頭から信じるのは危ういが、その中に16歳で、同年齢の美しい后を娶り、初夜を迎えた場面の描写がある。
「赤いとばり、赤いふとん、赤い着物、赤いスカート、赤い花、赤い頬……一面に溶けた赤いロウソクのようだった。私は非常にぎこちない感じで、坐っても落ち着かず、立っても落ち着かない。私はやはり(自分の居住する宮殿の)養心殿がいいやと思い、そこで戸をあけて帰ってしまった」
溥儀の自伝が伝えるのはそこまでだ。その先を加藤氏が追跡した。「(彼は)養心殿に行って太監と夜明けまで遊んだ」「養心殿には王鳳池(おうほうち)がただちに呼ばれ、朝まで二人が親密な夜を過ごしたこと」は多くが証言している、と。
天国と地獄の差
王鳳池は美しい女人よりもなお美しいと伝えられる宦官である。溥儀は一目で王鳳池に心を奪われ、彼に導かれて宦官との魔界の性に入った。これでは跡継ぎを授かるはずがない。
紫禁城はまた、聞くだに恐ろしい刑罰で満ちていた。西太后や溥儀らは、気分次第で些細なことにも死ぬ程の罰を与えた。青竹による「尻二百叩き」など序の口だ。手抜きは同罪とされるため、刑の執行は苛烈を極めた。最もひどい刑罰は「数枚の綿紙を水に浸し、それで口や目、耳、鼻をふさぎ、棒で殴り殺す」[気斃(きへい)]の罰だそうだ。
溥儀は「憂さ晴らし」として、絶対服従しかない宦官らに度々厳罰を与えた。いきなり鞭を持ち出して打ち据える。2月の極寒の中で冷水を浴びせ続け凍死寸前まで追い詰める。「地面に転がっている馬糞を食べてみろ」と命じて実際に食べさせる。宦官の口中に放尿するなど、虐待と異常行動を繰り返した。
「抵抗出来ないものを虐待して愉しむという溥儀の悪癖」は日本国の文化からすればおぞましい限りだ。
私は『私生活』を読んで、加藤氏のもう一つの作品、『慟哭の通州』(飛鳥新社)を思い出さずにはいられなかった。支那人による日本人虐殺の地獄の実態はここでは触れない。ただ言えるのは、溥儀がどれ程「日満一体化」で皇祖神天照大神を祀りたいと望もうとも、溥儀ら大陸の支配者らと、「国民に寄り添い民と共にある」日本の皇室との間には、天国と地獄の差があることだ。
「記紀」にあるように、わが国を創り給うた神々の末裔とされてきた皇室は、民を大切にしてきた。わが国のその時々の権力者は実権を握るものの、常に皇室、天皇を権威として戴いてきた。近代国家を目指した日本は、皇室中心の日本国を立憲君主国、天皇は「君臨すれども統治せず」と位置づけた。日本のこの国柄をこそ大事にしたいと『私生活』を読んで感じたものだ。