「 首相提言で改憲論の停滞を打破せよ 」
『週刊新潮』 2017年5月25日号
日本ルネッサンス 第753回
停滞の極みにある憲法改正論議に5月3日、安倍晋三首相が斬り込んだ。➀2020年までに憲法改正のみならず、改正憲法を施行したい、➁9条1項と2項を維持しつつ、自衛隊の存在を明記したい、➂国の基(もとい)は立派な人材であり、そのための教育無償化を憲法で担保したい、という内容だ。
それまで弛緩しきっていた憲法改正に関する政界の空気を一変させた大胆な提言である。大災害時を想定した緊急事態条項でもなく、選挙区の合区問題でもなく、緊急時の議員の任期の問題でもなく、まさに本丸の9条に斬り込んだ。
9条1項は、平和主義の担保である。2項は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」で、軍事力の不保持、即ち非武装を謳っている。
改憲派にとっても1項の維持に異論はない。むしろ1項に込められた日本国の平和志向を積極的に強調すべきだと考える。
問題は2項だ。2項を維持し、如何にして軍隊としての自衛隊の存在を憲法上正当化し得るのかという疑問は誰しもが抱くだろう。現に、民進党をはじめ野党は早速反発した。自民党内からも異論が出た。だが、この反応は安倍首相にとって想定内であり、むしろ歓迎すべきものだろう。
矛盾を含んだボールを憲法論議の土俵に直球に近い形で投げ込んだ理由を、首相は5月1日、中曽根康弘元首相が会長を務める超党派の国会議員の会、「新憲法制定議員同盟」で明白に語っている。
「いよいよ機は熟してきました。今求められているのは具体的な提案です」「政治は結果です。自民党の憲法改正草案をそのまま憲法審査会に提案するつもりはありません。どんなに立派な案であっても衆参両院で3分の2を形成できなければ、ただ言っているだけに終わります」
約15分間の挨拶で、首相が原稿から離れて繰り返したのは、どんな立派な案でも衆参両院で3分の2を形成できなければ、ただ言っているだけ、政治家は評論家ではない、学者でもない、立派なことを言うところに安住の地を求めてはならない、ということだった。
首相談話を肯定
護憲派の評論家や学者はもとより、改憲派の保守陣営にも首相は切っ先を突きつけている。「口先だけか。現実の政治を見ることなしに、立派なことを言うだけか」と。
この構図は、安倍首相が戦後70年談話を発表した2年前の夏を連想させる。あのとき、首相の歴史観を巡って保守陣営は二分された。首相の歴史観は欧米諸国の見方であり、日本の立場を十分に反映しておらず、歴史研究の立場から容認できないとの批判が噴き出した。その一方で、首相談話は歴史研究の成果を披露するものではなく、中韓両国が国策として歴史問題で日本を叩き、日本が国際政治の渦中に置かれている中で、日本の立ち位置をどう説明し、如何にして国際世論を味方につけるかが問われている局面で出された政治的談話だととらえて評価する見方もあった。
首相談話には、歴史における日本国の立場や主張を十分に打ち出しているとは思えない部分もあった。だが私は後者の立場から、談話の政治的意味と国際社会における評価を考慮し、談話を肯定した。これと似た構図が今回の事例にも見てとれる。
正しいことを言うのは無論大事だが、現実に即して結果を出せと首相は説く。その主張は5月9日、国会でも展開された。蓮舫民進党代表が、首相は国会ではなく読売新聞に改憲の意向を表明したとして責めたのに対し、首相は、蓮舫氏との質疑応答が行われている予算委員会は行政府の長としての考えを述べる場であり、自民党総裁としての考えを披瀝すべき場所ではないと説明した。蓮舫氏は納得せず、その後も憲法の本質、即ち日本が直面する尋常ならざる脅威、それにどう対処するかなどとは無関係の、本当につまらない質問に終始した。
首相批判もよいが、民進党は党として憲法改正案をまとめることさえできていない。どうするのか。この点を質されると、蓮舫氏は答えることもできなかった。
民進党だけではない。「結果を出す」次元とは程遠い政界の現状を踏まえて、首相が政党と政治家に問うているのは、憲法審査会ができてすでに10年、なぜ、無為に過ごしているのかということだろう。なぜ、世界情勢の大激変の中で、日本を変えようとしないのか、それで、国民の命、国土、領海を守りきれるのか、ということだろう。
ポスト安倍の資格
自衛隊を9条に書き入れ、自立するまともな民主主義の国の形に近づけたい。結果を出すには、加憲の公明党、教育無償化を唱える日本維新の会も取り込みたい。蓮舫・野田執行部の下で、重要な問題になればなる程まとまりきれない民進党の改憲派も取り込みたい。離党はしたが長島昭久氏や、憲法改正私案を出した細野豪志、自衛隊の9条への明記を求める前原誠司、笠浩史各氏らをはじめ、少なからぬ民進党議員も賛成できる枠を作りたい。憲法改正の最重要事項である9条2項の削除を封印してでも、世論の反発を回避して幅広く改憲勢力を結集したい。そうした思いが今回の政治判断につながっているのは明らかだ。現実的に見れば首相提言は評価せざるを得ない。
安倍政権下での好機を逃せば、改憲は恐らく再び遠のく。「立派なことを言うだけ」の立場は、この際取るべきではない。首相提言を受けて改正論議はすでに活性化し始めた。2項と、自衛隊を規定する3項の整合性を保つにはどんな案文にするかを大いに議論することが、いま為すべきことだろう。
こうして改憲の第一段階をクリアしたとして、次の段階では、まさに9条2項削除の道を切り開くべきで、その責務を担える人物が次のリーダーだ。誰がその任に値するのか。
ポスト安倍を狙う一人とされている石破茂氏は、首相提言直後のテレビ番組などで年来の議論の積み重ねを跳び越えるとして首相提案を批判した。何年も議論ばかりしていること自体が問題なのであり、国際情勢を見れば、日本に時間的余裕などないことを、石破氏は忘れていないか。氏の批判は手続き論に拘る印象を与えるが、そんなことでは次代のリーダーたりえないであろう。
世界の現実を見て、長期的視点に立って日本国憲法を改めていく覚悟が必要だ。日本周辺の現実の厳しさと国家としての在り方を考えれば、9条2項の削除こそが正しい道であるのは揺るがない。その地平に辿りつくまで、あるべき憲法の実現を目指して闘い続ける責任が、政治家のみならず、私たち全員にある。