「 産業革命遺産の軍艦島を見て分かった「監獄島ではなかった」の確からしさ 」
『週刊ダイヤモンド』 2016年11月12日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1157
10月末の日曜日、早朝の便で長崎に飛んだ。明治産業遺産関連の取材で、昨年7月に国連教育科学文化機関(ユネスコ)に「明治日本の産業革命遺産」として登録された端島、通称、軍艦島に向かった。
晴天に恵まれ、海は穏やかだった。港や桟橋などの施設が乏しい軍艦島は、波が高くなると上陸できないため、島に上がれるのは年間200日ほどだという。私は長崎市内から陸路伝いに南の方まで下り、野々串港という小さな漁港で小舟に乗った。
10分ほどで島に着いた。狭い島には、日本初の鉄筋高層ビルが約30棟も並び立っている。1974(昭和49)年に採炭を中止し、住民が去り、それから40年余り、島は幾十度台風に見舞われたことだろう。鉄筋コンクリート造の建物は、壁や窓枠が崩落してはいるが、それでも枠組みはしっかり立ち続けている。
特別の許可を得て約2時間かけて島を歩いた。小学校の建物があり、中学校のそれがある。病院があり、タイル張りの手術室が残っている。地下には大浴場があったが、いまは立ち入ることはできない。当時の最大の娯楽、映画館(昭和館)の跡も残っている。
鉄筋高層の住居棟がコの字形に建築されており、3つの棟に囲まれた広場は子供たちの遊び場、運動場でもあった。島の東側に一群の建物が並び立っているのは、台風などによる大波で一家の主人である父たちの働く採炭のための竪坑が浸水するのを防ぐためだったという。
端島では江戸時代から磯掘りが行われていた。1869(明治2)年以降、台風や出水という問題を乗り越えながら開発が行われたのだ。三菱財閥が端島炭鉱の経営に乗り出したのは、1890(明治23)年である。1900(明治33)年には米国のGE(ゼネラル・エレクトリック)の直流発電機を設置して、世界有数の海底炭鉱へと発展した。この点が、今回、世界産業遺産に指定された理由である。
その間に端島は採炭に伴って生じるいわゆるボタ(選炭後に残る商品にならない石炭)を材料にして、埋め立てを行い、現在より狭かった島を多少、拡張した。それでも、総面積は6万5000平方メートル、1万9700坪だ。
この島で人々がどんな暮らしをしていたのか。韓国などは「強制労働の地獄のような島」だったと主張する。
そのような非難の声があることも承知で、いざ現場に立って驚いた。私の耳に人々のさんざめく声が聞こえてきたのである。建物と建物の間の狭い道に所狭しと並ぶ店──、これを人々は端島銀座と呼んだ。そこに集い買い物をする人々、走り回る子供たち、島の1番高い所に通ずる急峻な階段を駆け上がる若者たち、頂上に建てられた端島神社へのお参りを欠かさない律義な人々、そして高層建築とは対照的に、低層の木造家屋で営まれていた3軒の遊郭。島にないのは火葬場とお墓だけ。狭い島の中に、全てが備わっていた。そこに最盛期は5267人が住んだ。
この小さな共同体で、軒を連ね、全てを分かち合って暮らさざるを得ない空間で、一部の人間が、朝鮮半島出身者だという理由だけで、強制労働でむち打たれ、地獄の暮らしをさせられることは、隣人たちもそれを受け入れていたことを示す。そんなことは可能性として成り立たないと実感した。
長崎市は、韓国側の非難に、「島民は、共に遊び、学び、働く、衣食住を共にした1つの炭鉱コミュニティーであり、1つの家族のようであったといわれている。島は監獄島ではない」との見方を示している。現場に立てば、長崎市の言い分が圧倒的に自然である。当時を知っている人はまだ複数存命する。彼らから真実の声を聞くべきだ。