「 ASEANの中国傾斜に日本が歯止めを 」
『週刊新潮』 2016年8月4日号
日本ルネッサンス 第715回
南シナ海は誰のものか。国際社会の公共財である海の秩序を国際法で守るのか、強国が力に任せて支配するのか。
この問いの前で、南シナ海の殆ど全てを自国領だとする中国の主張が悉く否定され中国が完膚無きまでの敗北を喫したのが7月12日だった。
ところが、7月24~26日、ラオスの首都ビエンチャンでハーグの仲裁裁の裁定後初めての東南アジア諸国連合(ASEAN)外相会議が開かれ、中国が猛烈に巻き返した。彼らお得意の分断政策を駆使し、最も注目されていた裁定について、一言も共同声明に入れさせなかったのだ。
中国外相の王毅氏が「著しく合法性を欠いた判決のページはめくられた。(判決がひき起こした)熱は下がった」と勝利を宣言し、中国を訴えたフィリピンのメディアは「ASEAN沈黙、中国の勝利」(7月25日「マニラ・タイムズ」)、「薄められた非難、蚊が刺した程の痛みもなし」(7月26日「マニラ・ブレティン」)などと報じた。
王外相は24日に現地に入り、カンボジア、ラオス、ブルネイ、タイ、ミャンマー、シンガポールの6か国外相と次々と深夜まで会談を重ねた。中国が絶対に認めないハーグ裁定に触れないよう説得し、ASEAN諸国中、最も中国に近いカンボジアが今回も中国の思いどおりに動いた。全会一致を旨とするASEAN切り崩しには、1国が反対すれば十分で、カンボジアは中国の最も重要な切り札である。
中国は今回、向う3年間で6億ドル(約625億円)の援助を与えると発表した。だが、カンボジアの最大の援助国は日本である。政府援助にとどまらず、多くの学校を建て、教師を派遣し、教材を送り続けてきたことに見られるように日本人は民間レベルでも活発にカンボジアに貢献してきた。中国人による同様の援助など、私は寡聞にして知らない。
それでもカンボジアは、法の支配か、力の支配かという極めて重要な問題に直面して、必ずしも日本を選ばない。というよりカンボジアは、ASEANの一員としての立場より、中国との関係を優先するとの批判がある。
弾圧政策に目を瞑る
カンボジアの中国接近にはフン・セン首相の個人的利害が深く関わっているとの見方が、専門家の中に少なくない。フン・セン氏は30年以上の長きにわたって実権を握ってきた。発展途上の貧しい国で30年以上にわたる権力掌握が汚職や不法権益と結びつきがちなことは容易に想像できる。そうしたことから生じる国民の不満を抑えるために、強権政治に傾いて今日に至っているのが現状だ。そうした中、フン・セン氏は18年に総選挙に直面する。不安定な国内政治において、政敵を弾圧するとしたら、日本をはじめとする先進民主主義国より中国の方が余程頼りになる。
なぜなら、中国に忠実であり続ける限り、中国は「内政不干渉」の立場で弾圧政策に目を瞑り、フン・セン氏への援助を続けるであろうから。ダルフールの虐殺で悪名高いスーダンのアル・バシル大統領を中国が支持し続けた前例もある。
ハーグの裁定を「紙クズ」と切り捨てた中国と、法による公正さとは異次元の世界で実利によって結びつく価値観が、そこにあるのではないか。
ビエンチャンでのASEAN外相会議が行われていたのと同じ25日、フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領がマニラで施政方針演説を行った。氏は南シナ海問題では「中国とは交渉しない」と言明済みだが、施政方針演説でも仲裁裁の裁定を「強く支持し尊重する」と述べた。
ドゥテルテ大統領はカンボジアとは異なる道を選択するかのように思える。しかし、約90分の演説中、南シナ海への言及はわずか1分だった。その扱いの軽さに一抹の不安を抱かざるを得ない。
小国は生き残りのために大国の動きを測る。ASEANが中国とアメリカ、もしくは中国と日本の間で計算し、揺れ動くのは当然である。だからこそ、日本はあらゆる努力で南シナ海での中国の無法な行いを許してはならない。なぜなら、南シナ海問題は東シナ海問題でもあるからだ。日本の国益のために、いま、中国の無法な行いを抑制しなければならない。具体的に何をすべきか。
まず、ASEANに生じている深刻な問題意識に目を向けたいと思う。シンガポールの東南アジア研究所、上級研究員のタン・シュー・ムン氏は外相会議開催前に、「ASEANは、南シナ海問題で水で薄められたような共同宣言を出すよりも、共同宣言を出せない不名誉を選ぶべきだ。ASEANはたった1か国の些細な利益追求の人質には決してならないと発信せよ」と発表した。
「カンブレグジット」
99年にカンボジアが加盟しASEANは10か国になった。以来、創始国5か国の解決能力が低下したと氏は指摘する。さらに、この間に発生した「課題の全てで中国が共通の問題」だが、責任を他国に転嫁してはならない、責任は自分たちの中にあると説く。
カンボジアがASEANの一員でありながら「南シナ海問題の本質を理解できず、より大きな構図の中で戦略的に考えることができていないことこそ最も懸念すべきだ」とも書いている。
カンボジアの議事妨害的な行動は許さない、カンボジアはASEAN諸国の不満に目を瞑るなと氏は憤っているが、ASEANでこんな強い意見を聞くのは珍しい。彼らは10か国の結束を重視し表立って激しく非難し合うことは余りない。
しかし、タン氏はこうも書いた。
「カンブレグジット」を考えるべきだ、と。イギリスの欧州連合離脱、ブレグジットをもじって、カンボジアの離脱を提案しているのである。
「たった1か国に(全体の決定を)拒否する力を認めてはならない」「トロイの木馬を抱え続けてはならない」「これはASEANが戦い、そして勝利しなければならないバトルだ」と強調し、最後に問うている。
一体誰がこの戦いを主導するのか、と。
氏は答えを次のように書く。
「中国に対処するのに決定的役割を担うのは日本である」
かつて日本に非常に厳しかったこともあるシンガポールからの提言である。驚くべきではないか。彼らは十分に識っているのだ。日本は中国とは全く異なる国であること、日本人は国際法を守り、平和的話し合いを基軸とする民族であることを。
ASEAN外相会議で中国は巻き返したが、彼らとの対峙やドンデン返しは、これからもずっと続く。日本が守ってきた価値に自信をもって、大きく変わる国際社会、とりわけアジア情勢を主導する責任を担うのだ。その覚悟と準備を整えることが、日本に迫られている。