「 人類を変えるバイオで日本が主導 」
『週刊新潮』 2015年7月23日号
日本ルネッサンス 第664回
これ程国際的に活躍している日本人が他にいるだろうか。伊藤穰一氏を見てそう思う。しかも彼は組織に属さず、独力で今の彼になった。
親しみをこめて人々は彼を「ジョイ」と呼ぶ。1966年、京都府生まれの49歳。87年シカゴ大学中退後、多数のIT関連会社を起業し、日本のインターネットの発展に計りしれない影響を与えた。2011年MIT(マサチューセッツ工科大学)のメディアラボ所長という輝かしいポストに、日本人として初めて就任した。ソニー、「ニューヨーク・タイムズ」社などの取締役でもある。
多彩な才能を持つデジタル世界の先駆者、ジョイは、アナログ人間である私の長年の友人だ。彼と7月10日、「言論テレビ」で対談した。
彼は3・11の体験から語り始めた。
「あのとき僕はボストンに、うちの奥さんと家族は千葉にいたの。僕たちは殆どの食物を自分の畑で作っているから、放射能のことがとても心配で、すぐにネットでいろんな人を掻き集めた。ガイガーカウンターを作れる人、地図のわかる人、放射能の専門家など、多くの学者が集まり、すぐにデータ測定の作業を始めることができました。何が安全か安全じゃないかは、僕たちは一切語らない。一番ないのが正確なデータだと考え、ガイガーカウンターを持ったチームを次々送り込んだの」
当時、民主党政権が福島に派遣した専門家は白い防護服とマスク姿でデータを集め現地の人たちに説明もせずに東京に戻った。ジョイが語る。
「あのやり方が一番、住民に恐怖を植えつけたと思います。僕たちは現地の無数の人たちと協力した。郵便配達の人はバイクに測定器をつけて、正確なデータ集計に協力してくれた。こうして震災からひと月で、世界で断トツの量と正確さを誇る放射線データを集めたのです」
データ収集地点は3000万か所に達し、190頁の報告書も発表した。
「東電も復興庁も最初は僕たちを危険視したけれど、非政治的姿勢を見て、安心するようになった。僕らも政府や東電関係者の仕事振りをみて、彼らは案外ちゃんとやっていると公正に評価した」
人類の在り方を変える
彼らが開発したガイガーカウンター、「SAFECAST」(安全発信)の情報は全て開示され、安全な地域と危ない地域を明示した。情報開示が、事実がわからないという一番の恐怖心を取り除き、安心材料を提供したと、ジョイは笑顔で語る。正しい数字を知ることは生活再建を後押しする力にもなっていると言う。
皆で実態把握に貢献するこの手法をジョイは「シチズン・サイエンス」(市民科学)と呼ぶが、同手法はこれまでに中国の大気汚染の実態解明にも役立ってきた。
インターネットが否応なく世界を変えてきたことは、私たちの実感である。だが、いまそれ以上に人類の在り方を根本的に変えようとしているのがバイオだと、彼は強調する。
「僕らが普通に考えていることが全く通用しなくなる時代が、すぐそこに来ています。たとえば、子供をいくらでも編集できるようになる」
卵子や精子の遺伝子を簡単に操作できるようになるというのだ。
「2003(平成15)年に人間のゲノムが完全に解析されたとき、費用は2700億円でした。いま、10万円です。先日、僕の知り合いが10万円で遺伝子解析の機械を発売した。解析だけでなく、遺伝子をいじる技術も、昔はもの凄く高かったけれど、いま30ドル(3600円)です」
それは2年前にできたクリスパーという遺伝子操作技術で、人間に適用してよいのかどうかが議論されている。胎児に遺伝子の病気があったら治すのか。ジョイが語る。
「人間は欲張りだから、もっと目を大きく、頭ももっとシャープにと、なっていく。37年前に『タイムマガジン』の表紙に体外受精児(Test-Tube Baby)と大書された。大議論を巻き起こしたけれど、いま、体外受精は保険対象になるくらい普通のことです。卵子を冷凍して蛋白質で編集し、他の人のものと混ぜたりもできる。すると、結婚と子供が段々関係なくなっていくかもしれない。
子供の遺伝子も自由に選び、欲しいときに子供を作れる。結婚して子供を作る社会構造は、バイオ技術の発展で変化していくと思います」
結婚も人間の生き方も、大変化する可能性があるのである。
虫の遺伝子操作技術は5年から10年程で、高校生が簡単にこなせる時代がくると、ジョイは語る。農作物を食い荒らす虫を遺伝子操作して農作物を嫌うようにしてしまえば被害は減少するというような考え方で、こうした技術が生み出され実用化される可能性もある。
日本人がリードできる
米国主催のiGEM(the International Genetically Engineered Machine competition=合成生物学の国際大会)という競技会では、地雷を探し当てる生物や特殊機能をもつバクテリアなどを作ることを、全世界から2000人規模の高校生や大学生が集って競う。同大会の1回目の主催者はFBI(米連邦捜査局)だった。
「うちのメディアラボでも学生たちが研究しています。情報も、パーツの形の遺伝子もネットにあります。学生がプログラムを書いてデザインして、プリントして、それをバクテリアに入れて餌をやる。するとバクテリアがプログラムを動かす。このストリート・バイオロジー、街角バイオは誰にでもできる時代です」
インターネットでハッカーを敵に回したFBIは、バイオで若い世代との協力関係構築を目指している。
「バイオはインターネットよりもはるかに危険で、倫理面での抑制が必要です。規制を強化すると善い人たちは研究しなくなり、悪用しようという人たちばかりが技術を修得して却って危険です。規制の替わりに倫理を確立し、浸透させる。その議論が大事です」
と、ジョイ。
遠い未来のサイエンス・フィクションではなく、こうしたことは足下ですでに始まっている。だからこそ、人間の在り方を根本的に変えてしまいかねないバイオ技術の発展にどう対処するのか。ジョイは、この新しい時代を最も賢く切り拓いていけるのは日本人だと言う。
「日本人は科学が好きで、社会に基盤ができています。宗教的な勘違いも余りありません。宗教的すぎたりイデオロギーが強すぎる国民よりも、自然と対立せずに自然に溶け込む形で暮らしてきた日本人が先頭に立って、世界をリードできると、僕は考えています」
この分野で日本人は自然と人間のよき関係を世界に示せるのだというジョイの言葉に、私はとても勇気づけられた。