「 日米で翻弄されながら生き抜いたイサム・ノグチの母の生涯 」
『週刊ダイヤモンド』 2015年7月18日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1092
私の手元に『レオニー・ギルモア イサム・ノグチの母の生涯』(彩流社)という500ページを超える大部の書がある。著者はエドワード・マークス氏。1963(昭和38)年、ロサンゼルスで生まれた氏は、現在愛媛大学で英米言語文化論を教える准教授だ。
彫刻家、イサム・ノグチは、波乱の人生を生きた山口淑子(李香蘭)の夫でもあり、その名は日本だけでなく米国でも広く知られている。他方、その母、レオニーは比較的忘れられた存在だった。マークス氏はそのレオニーに光を当て、見事なアメリカンレディの生き方を描いてみせた。
彼女は1873(明治6)年、ニューヨークで生まれた。恐慌で職を失った人々が溢れていた時代で、レオニーも労働者の子弟のために設立された授業料無料の「労働者学校」を卒業した。同校は子供たちに自分の手で物を作らせることを重視した。自分の手、つまり五感を使って理の真実を発見させることを目指した学校だった。
レオニーのその後の生き方を見ると、彼女はこの教えを基本に、2人の子供を育てたのではないか。彼女は子供たちに体を動かすこと、五感を磨く教育を施したが、そうして実を結んだのが、イサムであり、その妹で世界的なバレエダンサー、プリマバレリーナとなったアイレスだったと思う。
レオニーがイサムの父、つまり、米国で大活躍していた日本の詩人、野口米次郎と出会ったのは1901(明治34)年だった。彼の詩の英訳者として働いたのがレオニーだった。
レオニーの言語感覚は鋭く、やがて野口は彼女に彼の詩を「簡潔ですっきりした」表現に、「不必要な言葉は取り除いて、効果的に凝縮」させるようにと要請するようになった。彼女は米次郎の詩を英訳しつつ、作品として「仕上げる」役割も果たした。
04(明治37)年、彼女はイサムを身ごもったことを米次郎に告げた。すると彼は「どうして妊娠したと分かるんだ」など、男の風上にも置けない言葉で応じた。米次郎は妊娠したレオニーを置いて帰国し、別の米国人女性エセルを呼び寄せて結婚する気になっていたのだ。
レオニーはロサンゼルスに移り、1人でイサムを産んだが、このことは新聞に大きく報道された。米次郎がよく知られた詩人だったことや、当時、米国人は日露戦争で日本が勝つように応援していた時代である。
だが、米国世論はすぐに反日へと大きく変わっていく。日露戦争後、米国、とりわけ西海岸では日本人に対する人種差別は凄まじかった。人種差別の嵐の中で日本人詩人の子供を、シングルマザーとして育てることは大変なことだったはずだ。
レオニーとイサムはみすぼらしいテント張りの家に住んでいたというが、レオニーは貧しさを一向苦にしなかった。幼いイサムはテントの周りの自然の中で駆け回り、極めて利発な男の子として成長した。彼が2歳のころ、母と子は米次郎に迎えられて来日するが、その結婚生活もやがて破綻していく。
レオニーはその後、別の日本人男性との間に娘のアイレスを生む。この女児を世界的なプリマに育て上げたのは前述の通りだが、レオニーは生涯、父親の名前を口にしなかった。
日本と米国、2つの異なる文明の間で、自分を愛してくれなかった男性を、それでも愛し、やがて誇り高く独り立ちした女性がレオニーだった。
本書を読んで私はあらためて米国という多人種国について学んだ気がする。ちなみに本書は、シンクタンク、国家基本問題研究所の「寺田真理記念日本研究賞」の今年の受賞作品である。同賞は日本に関心を持ち、日本研究をしてくれる外国の研究者が対象である。少しでも日本理解が進んでほしいとの願いを私たちはこの賞に込めている。