「 今こそ学べ辰巳栄一の国際戦略 」
『週刊新潮』 2011年8月4日号
日本ルネッサンス 第471回
湯浅博氏による『産経新聞』の連載が、『歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(産経新聞出版)として上梓された。
改めて通読すると、辰巳の活躍したその時代、種々の決定を下す歴史の現場に、自分自身も居合わせているかのような臨場感を抱く。本書が息苦しいまでの切迫感で迫ってくるのは、辰巳が直面し、手がけた問題が、そのまま現代日本の問題としてあまりにも生々しい形で燻っているからだ。
昭和史の転換点で我が国が犯した決定的な過ちも、辰巳の前に立ちはだかった壁も、彼の懊悩も優れて日本の今日的問題なのだ。それらはいまや宿痾となってこの瞬間もわが国を蝕み続ける。「あの時」犯した選択の誤りと、「あの時」正し得なかった過ちが、国土も領海も自ら守ろうとせず、ひたすら日米安保条約に頼って問題をかわそうとする現在の日本の異常な国柄を作り上げたのだ。
佐賀鍋島藩出身の軍人である辰巳は大正4(1915)年から昭和の敗戦まで約30年間、帝国陸軍に在籍し、参謀として働き、戦後は軍事顧問として舞台裏で吉田茂首相を支えた。
辰巳が手がけた多くの課題のうち、日本の命運に最も大きく関わったのが、ドイツ、イタリアとの三国同盟に走る勢力を抑制することだったのではないか。英米との協調路線を重視し、ドイツ派の前で孤軍奮闘する辰巳の姿に、私は祖国の生き残りの道を必死に模索する、広い視野を持った愛国者の姿を見る。
1937年、日本は日独伊防共協定を結ぶ。同年7月に盧溝橋事件、続けて第2次上海事変が勃発、翌年にはヒトラーがオーストリアを併合し、チェコスロバキアは解体されはじめた。その年の夏に、辰巳はロンドン駐在武官から東京の参謀本部欧米課長に転じた。
再軍備と憲法改正
参謀本部は日独伊防共協定を強化して、同盟に格上げしようと画策中だった。日本が最大の脅威と見做していたソ連に対処し、支那事変後、蒋介石への支援体制を強める英米を牽制し、あわよくば中国から手を引かせる道が、日独伊三国同盟だと陸軍参謀本部は頑なに信じていた。だがその分析は、ドイツの過大評価と、英米の過小評価に加えて、外交に必要な幅広い知識の欠如の産物だった。
駐英国大使吉田茂の下で、武官として情報活動に優れた実績を残した辰巳は、日本政府や参謀本部よりもはるかに大きな枠組みで世界の動きをとらえていた。欧州の入り組んだ政治情勢を目の当たりにした辰巳は徹底して現実に目を向け、情報分析力を磨いた。吉田も辰巳も外交の最終目標が祖国の生き残りを確実に担保することだと弁える。従って、彼らが総合国力の点で、日独をはるかに上回る米英と対立してはならない、負ける側と組んではならないと考え、英米との協調路線推進に覚悟をもって奔走したのは当然だった。
その辰巳を「軟弱な英米派」と批判したドイツ派の軍人や政治家は、39年の暑い夏の最中に結ばれた独ソ不可侵条約に驚愕する。
彼らにとって、防共協定を結んでいるドイツが、協定の対象であるソ連と手を結ぶなど考えられなかったのだ。武器こそ持ち込まれないが、外交は国の浮沈をかけた戦いである。騙しも偽りも何でもありだ。ソ連のように平気で条約を破る国、中国のように「ウソ」が日常茶飯の国もある。だからこそ、相手の国柄、価値観をよく知り、それを広く内外情勢に重ねて、各国の利害の在り所を見定めなければならない。そうした知的訓練なしに自らの基準だけで他国の行動をはかった日本は、国際情勢を読めず、平沼騏一郎首相は「欧州の天地は複雑怪奇」との声明を発表して辞任した。
その後も、日本外交は翻弄され続ける。日独同盟をもってソ連の脅威に対処しようとした日本の目の前で、ドイツがソ連と手を結んだことから学ばずに、日本は1年後の40年9月、日独伊三国同盟を結んでしまった。近衛文麿首相も松岡洋右外相も、英米派と言われた人材を更迭し、三国同盟への道を突っ走った。
これより少し前の40年5月、辰巳は3度、ロンドンに戻る。彼を待っていたのは、ヒトラーのベルギー、オランダへの侵攻であり、ドイツの脅威に警鐘を鳴らし続けたチャーチルの首相就任だった。以降の顛末は周知のとおりだ。
もう一点、辰巳が全力で取り組みながら、解決出来ずに終わった無念の課題は、再軍備と憲法改正である。湯浅氏は、辰巳がどれほど、再軍備と軍備拡張、さらに憲法改正の必要性を吉田に進言し、吉田がどれほど頑固にそれを退けたか、詳しく描いてみせる。
吉田の悔悟から約半世紀
吉田の「防衛力は国力に応じて漸増すべきもの」という言葉は、ぞっとするほど、現民主党の暗愚極まる政権の主張と重なる。吉田は日本を「瘠馬(やせうま)」にたとえ、再軍備の経済的負担に耐えられないとして、ひたすら、経済復興に専念しようとした。
それでも米国は、日本独立の前に軍備増強の確約を得ておこうと、日本周辺の国際情勢の緊迫振りを、吉田に伝えようとした。だが、米軍参謀長が吉田に面談を求めたとき、吉田は辰巳にこう言い放った。
「軍事のことなら、君、代わりに行って聞いてくれ」
軍事力は国家の重要な基盤をなす。吉田はしかし、軍事力を毛嫌いし、実情を知ろうともしなかった。代わりに吉田は情報力の強化で軍事的脅威に対処しようと考えた。結論からいえば、吉田は、日本に十分な情報組織を育て上げることが出来ずに政権を追われた。辰巳は吉田の政界引退で活躍の場を失った。辰巳という優れた軍事参謀を有しながら、吉田は辰巳を生かしきれなかったのだ。
軍事力を忌避するあまり、軍事を軽視し、戦略構築に必要な相手国の動向の分析も不十分なまま、自分の都合を軸に考えたのが吉田政治だった。外務官僚出身の政治家の限界ではないだろうか。
吉田は54年暮れ首相を退任する。10年後の64年10月、東京オリンピックが開催され、対岸の中国で核実験が実施されたとき、辰巳の前に座り直し、改まって「再軍備問題や憲法改正」について、「深く反省している」と詫びたという。まともな軍隊なしにはまともな国家たり得ないこと、軍事力の必要性は経済的繁栄によっても少しも減ずるものではないこと、あらゆる意味で憲法改正が必要であることを認識するまでに、吉田が費やした時間はあまりに長い。日本の悲劇は、吉田の悔悟から約半世紀、辰巳の、そして吉田のやり残した課題に取り組もうとする政権が生まれなかったことだ。新たな争いの時代であるこの21世紀を生き抜き、生き残るためにも、辰巳の足跡を辿り、その志を継ぐ覚悟が必要である。