「 特集 国防最前線を担う最果ての島『与那国』ルポ 」
『週刊新潮』 2009年10月1日号
日本ルネッサンス 拡大版 第380回
「国境」が危ない」 【後編】
9月2日、尖閣諸島の上空を飛んだ。海原に浮かぶ日本固有の領土の周辺海域には海上自衛隊の船と海上保安庁の船が巡回していた。中国が東シナ海で着々と開発を進めるいま、この美しい海は中国の侵食から日本を守る緊張の海でもある。
尖閣諸島とともに、日本の国境を形成するのが与那国島だ。日本列島最西端に位置し、那覇から500キロの海上にある。人口1,625人のこの島で8月2日、町長選挙が行われ、外間守吉(ほかましゅきち)氏(59)が再選された。
同選挙が全国的に注目されたのは、氏が陸上自衛隊の誘致を、選挙前の6月30日に浜田靖一前防衛大臣に陳情し、浜田氏がそれに応える形で7月8日、現地を視察していたからである。与那国町議会は昨年9月、自衛隊配備を要請する決議を賛成4、反対1で可決しており、外間町長の陳情は町議会決議を踏まえたものだった。
沖縄本島以西以南に、陸上自衛隊が駐屯する島はゼロである。長径500~600キロの海域は安全保障上の空白となっているのだ。現在、与那国島を守っているのは、島の駐在所のおまわりさん2名と、拳銃2丁、計10発の銃弾だけと、島民の間では語られている。
反自衛隊の気風が色濃い沖縄で、陸上自衛隊誘致の運動が起きた背景には、こうした脆弱この上ない国防の実態がある。だが、現地で取材してみると、そこには沖縄ならではの複雑な事情が見えてくる。
空港に降り立つと、本土とは異質の極めつきの暑さに驚く。与那国町役場に、外間町長を訪ねた。
「与那国も御多分に洩れず、人口減と景気低迷に苦しんでいます。政府がもっと目に見える形で我々を守ってくれる体制がほしい。そのためには、自衛隊に駐屯してもらうのが最善だと考えるに至りました」
島の人口はこの3年間で100人近く減少した。小泉純一郎首相のとき、国と地方の税財政を見直す三位一体改革が断行され、地方交付税が大幅に減額された。90年代は年間予算が30億円を超え、40億円に迫る勢いだったこともあった与那国の、09年度の実績は22億円に下がった。
外間町長は、「地方切り捨て」を次のように語る。
「島の法務局も気象観測所も、入国管理事務所もみな、合理化され、閉鎖されました。公的機関が消えた一方で、きちんとした病院も高校もありません。『15の旅立ち』という言葉を御存知ですか。高校教育を石垣島など他の島で受けるために15で島を出るのです。多くの若者はそこから自立し、もう戻ってきません。
この人口減と経済的低迷を乗り越えるには、元気のよい若者たちに島に来てもらうしかない、最も有効な方法が自衛隊誘致だと考えたのです」
外間町長は、たとえば年収700万円の自衛隊員が100人駐屯するとして、一人当たりの交付金が37万円増え、それだけでも自主財源が2割程度の町には意味のある歳入だという。
「高齢化したこの島に若い隊員たちが来て、その内の何割かが家族連れで来てくれれば、島の子供たちにも大いに刺激になります」
町長と思いを一にして自衛隊誘致の推進力となってきたのが与那国防衛協会だ。設立は3年前、会員は34名である。会長の金城信浩(しんこう)氏(65)は陽気な声で、島の安全を担保するためにも、是非自衛隊に来てほしいと語る。
「中国の調査船や原子力潜水艦が与那国島や八重山諸島近海に現われ平気で領海侵犯をするようになりました。中国は与那国の至近距離にある尖閣諸島を、自国領だと主張し続け、与那国島から100キロ余りしか離れていない台湾も、尖閣領有に意欲的な発言をするようになりました」
台湾の防空識別圏
馬英九政権の誕生以来、たしかに日台関係には、従来になかった緊張感が漂う。08年6月10日、尖閣諸島の日本の領海内で日本の巡視船と台湾の遊漁船が接触した事故で、台湾政府はなんと軍艦を派遣し、「開戦の可能性を排除しない」と述べた。同発言は後に訂正されたが、島の人々は、こうした事柄を簡単に忘れ去るわけにはいかないだろう。氏は強調する。
「与那国が翻弄されないためにも自衛隊が必要です。島に自衛隊が駐屯するだけで、他国へのメッセージになります。なにより、島に住む我々が安心出来ます」
防衛協会副会長の糸数健一氏(56)はこう語る。
「理想的な国土の状態は、全国の隅々まで人が住んでいることです。与那国島に島民が住み続けることが、国にとっても最大の国防でしょう」
だが、島に住民は安心して住み続けられるのかと、氏は問う。診療所はあっても、医師は1人だけ。産婦人科医不在のため、出産は島外へ行かざるを得ない。
「島生まれの人間がいなくなりつつあるんですよ。老人介護施設もない。介護が必要なら、他の島に行く。生まれるのも死ぬのも島の外という笑えない現実があります。食肉処理施設もなくなり、牧場の牛を捌いて隣近所で分け合って食べることも出来なくなった。施設のある石垣島に運ぶだけで10万円、牧畜が基幹産業のひとつでありながら、牛肉も食べられなくなったのです。自衛隊が来れば、医療面も改善され、陸自の航空機で急患輸送も、いま以上にスムーズになるでしょう」
氏は、夕方に岸近くにやってくる中国の調査船を3日間連続で目撃した経験がある。住民や国がどれだけ意識しているかにかかわらず、島は中国の脅威に晒されていると強調する。
「にもかかわらず、島の西側3分の2が台湾の防空識別圏となってしまっている。これは領空の更に外側に引かれる線で、この圏内に入ると、領空侵犯の恐れありとして戦闘機がスクランブルをかけても文句が言えない。そんな警告ラインが日本の領空であるはずの与那国島の上に引かれたままです。戦後米軍が適当に決めて、祖国復帰後もそのままになっている。こんな屈辱的なことがありますか。そうしたことを理解しない国会議員には、島に来て現実を見てみろと言いたいのです」
先に浜田前防衛相に提出した自衛隊誘致の署名は、金城、糸数両氏らが中心になって集めた。300人の目標は、すぐに達成され、514人分集まった。
ところがそうした動きに反対する人々もいる。彼らは署名集めや陳情など、一連の動きについて、「町の説明がなかった」と、批判する。与那国島を訪れた日の夜、20代、30代の人々を中心に、10人近くの話を聞いた。その多数が反対派で、賛成派は2人ほどだった。約束の場所には冷たいビールに、あり余るほどの食事が用意されていた。
「保守も革新もない」
ビールを片手に反対派と賛成派が話し合う。本土なら、議論が過熱して喧嘩腰になりそうな場面でも、彼らは穏やかだ。何があっても共に暮らさなければならない島での、これが人間関係の結び方なのだ。
町役場に勤務する田島忠幸氏は38歳、自治労の組合員だ。
「自治労という立場から自衛隊誘致については反対です。ここが国境に位置する重要な島であることは意識しています。2年前には米軍の掃海艇が港に入って来た。島を取り巻く環境の変化も実感しています。ただ、自衛隊誘致についてはじっくり考えたいという人がいるのも事実です。結論は出ていない。誘致の功罪をしっかり説明して、島全体で議論すべきです」
町議の中で唯一人、誘致に反対した小嶺博泉(ひろもと)氏(38)は、自衛隊自体に反対なわけではないと言う。
「中国の勢力拡大、ガス田と尖閣問題など、国防の重要性はわかります。けれど、島で暮らしていると、本当に切実な脅威があるのか、ようわからんのです」
小嶺氏は島の最大の課題は経済だと強調する。年収200万円以下が島民の「ほとんど」を占めるとき、たとえば島を非課税特区にしたり、島への航空運賃を半額にするなどの特別措置で人口減を止めることが重要だと言うのだ。
「その方が、100人の自衛隊員に来てもらうより、効果があるはずです。第一、与那国島に自衛隊の駐屯が本当に必要なら、政府が要請するはずです。それもないのに、島の方から願い出るのはおかしいでしょう」
反対派の人々は、514名分の署名には本人に確認せず誘致派が勝手に入れた分もあると口々に批判した。なんのための署名か、説明もなかったと反発した。
すると、賛成派の1人が言った。
「違うやろ。ちゃんと説明したし、それをちゃんと聞いたでしょうが」
アルコールが入っているにもかかわらず、ここでも口調は穏やかだ。
糸数氏が、一連のやりとりを聞いて、反論した。
「514名になった経緯を説明します。締め切りの時点で495名分が集まっていました。半端な数でしたから私が5人に声をかけて切りよく500人にしました。ところが、いまは反対派に回っている企業経営者が、署名締め切り直前に、自分の家族と従業員合わせて14名分を持ってきてくれて514になったのです。小さな島ですからいろんな柵はあります。けれど、いま署名の不当性を言う人たちも、自ら署名してくれたのです」
島の人々の主義主張は、多くの要素で決められ、それゆえに自在に変化する趣がある。理屈は中々通用しない。各人の人生の歩みと、その歩みのなかで他者とどのような絆を築いてきたかが、理屈よりも重要な要素となる。時に情が優先し、現実的な方法が尊ばれる。
「ここでは保守も革新もない。この島が石垣島や竹富島と違うのは、国境の島だからですよ。島民の国防意識は高いと思います。今回、誘致反対を訴えた相手候補の陣営の人も署名してくれているくらいですから」
糸数氏は自衛隊誘致は保守、革新を超えた要望だというのだ。自衛隊誘致に反対の小嶺町議は元々保守陣営の支援を得て町議となった一方で、保守勢力の中核の防衛協会会長の金城氏はかつてはバリバリの左翼だったという。だが、そんなことはここでは重要ではない。金城氏は、自分は右も左も歩いてきた、何があっても怖くないと笑う。
「私が2歳のとき、父は摩文仁の丘で戦死し、靖国神社に祀られました。母は一人っ子の私を育てて10年前に76歳で他界しました。私は6人の子供に恵まれ、長男は私と一緒に防衛協会で誘致運動をしています」
氏は石垣島の県立高校卒業後、母親のいる島に戻った。
「一貫して革新畑を歩んできましたよ。与那国の農協書記や青年会会長を務め、70年から7年間、沖縄社会大衆党系の町議でした」
沖縄社会大衆党は革新勢力の中の第一党だった。
「当時も自衛隊誘致の動きがありました。けれどね、私は、そうした動きを潰してきたんですよ。その頃の影響で、実はね……」
と氏は乗り出した。
「いまでも一坪地主です」
米軍基地反対の先頭に立つ一坪地主の一人だと言って、笑い飛ばした。だが運動はもうしておらず、早く抜けようと思っているとも語る。77年から6年間、町の助役を務めたあと、町政から離れたが、政治への関わりは尚続き、86年に町長選に出馬するも落選。以来、家業に専念したという。
「沈まざる航空母艦」
氏はいまや、与那国石油商会、国泉泡盛の代表取締役であり、与那国産の和牛ビジネスも手がける。
「社会も世間も変わります。島を巡る状況は悪化しています。過去は過去です。経験を重ねたいま、かつての自分が主張していたようなやり方では、与那国はよくならないとわかる」
外間町長も自身についていわゆる転向組だと語る。
「私は沖縄国際大学出身で70年代闘争の時代から、社会党員でした。かつては、基地返還、核密約に拘り、反自衛隊、反基地、反安保を主張してきました。けれど、社会党路線と合わず、除名されました。いまは保守で自民党支持です」
国の直面する重要な問題について、社会党が何のこたえも持ち合わせていないと気づいたとき、保守に転向した、若いときは頭デッカチだったと振りかえり、いまの若い人たちにはよく、考えてほしいと言う。
島を離れる日の朝、糸数氏に案内されて島を歩いた。町役場などが集中する島の中心地、祖納集落を見下ろすティンダハナタの高台に立った。その頂きに屏風のようにそそり立つ分厚い岩壁に石碑が嵌め込まれていた。
「讃・與那国島」と題して伊波南哲という人物が詠った詩である。
荒潮の息吹きに濡れて
千古の伝説をはらみ
美と力を兼ね備へた
南海の防壁 與那国島
行雲流水
己の美と力を信じ
無限の情熱を秘めて
太平洋の怒涛に拮抗する
南海の防壁 與那国島
詩は第三節、第四節と続き、与那国島を「沈まざる二十五万噸の航空母艦だ」と謳って結ばれている。「紀元二千六百三年三月」、昭和18年3月の詩である。
「この島の防人意識を表わした碑だと思います。昔はこういう気持は誰の心の中にもあったと思います」と、糸数氏。
この国境の島と日本を、政権を取った民主党は、決然と守っていけるのか、その意識があるのか、厳しく問い続けなければならない。
中国の対日政戦略 日清戦争から現代にいたる中国側の戦略思想…
中国の対日政戦略の著者である深堀道義氏は海軍兵学校卒(昭和20年卒、75期)で、中国語に堪能である。深堀氏は、リットン調査団および国際連盟が満州事変を日本の自衛行為とは認めなかったものの侵略行為とも認めなかったことや、尾崎ゾルゲ近衛グループの東亜新秩序構想を…..
トラックバック by 森羅万象の歴史家 — 2009年10月09日 20:37