「妻子を殺害された青年が絶望の中で闘い続けた軌跡」
『週刊ダイヤモンド』 2008年8月2日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 750
新潮社に入社して以来、25年間「週刊新潮」編集部に在籍した門脇護氏が、『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』(新潮社)を上梓した。
ペンネーム、門田隆将で著した本書は、「週刊新潮」の筆頭デスクとして縦横無尽に走り続けてきた氏の力量を思わせる。
本書は、山口県光市の妻子殺害事件の被害者の家族、本村洋氏が、自殺を考えるまでの絶望の中で闘い続けた軌跡を描いたものだ。それはまた、本村氏の妻、弥生さんと生後11ヵ月の一人娘、夕夏ちゃんを殺害した犯人Fが、犯行当時18歳だったことから生じる、少年法との闘いでもあった。
犯人が未成年という理由、または殺害したのが永山則夫のケースのように4人でなく2人であるという理由で、判決は無期懲役と予測された。場合によってはわずか7年で出所する可能性のあるのが無期懲役である。
判決言い渡しの日を前に、当時23歳の本村氏は、「死刑」判決が下されなければ死をもって抗議しようと決意する。自分が死ねば、社会も少年法の不条理に声を上げてくれると期待したのだ。明らかに異変を生じさせている本村氏の心情を職場、新日本製鐵の同僚が察知し、遺書を見つける。同僚から上司へ、上司から親族への連絡の輪のなかで、本村氏はかろうじて踏みとどまった。
また、一審での判決以前に、妻子を奪われた本村氏は仕事に意味を見出せなくなり、辞職願を出した。
職場の上司は諭した。「社会人として発言していけ」と。「労働も納税もしない人間が社会に訴えても、ただの負け犬の遠吠えだ。社会人たれ」と。
人生の先輩の助言の、また、同僚たちの見守りの姿勢の、なんと的確であることか。本村氏の闘いを支えたこうした人びとの言葉や行動が、水が胃の腑にストンと落ちるように、一つひとつ、胸に収まっていく。
本村氏は、妻と娘を殺害しながら、反省することさえなかった18歳の少年を凝視しながら、2人の死をムダにしてはならないと決意する。氏は訴える。「人の命を身勝手に奪った者は、その命をもって償うしかないと思います。それが私の正義感であり、私の思う社会正義です」。
氏の訴えは、巧まずして死刑制度の存廃や少年法をめぐる論議の渦の中心に位置づけられ、やがて、確実に社会を動かし、司法をも変えた。本書は、そうして導かれた衝撃的な結末までの軌跡に、読者を引きつけ続ける。
本書が追い続けたFの言動が示したのは、あまりにも明らかな事実だった。少年法に守られ、自分の命が保障されている限り、加害者Fは自分が命を奪った被害者や愛する人を失った家族の心中を察することができなかったという事実だ。むしろ、罪を逃れて生き続けようとするFの前に立ちはだかり、社会正義を主張する本村氏に、Fは憎悪に満ちた視線をぶつける。反省はなされていないと、本村氏は確信する。
だが、真の驚きは最後にやってきた。最高裁から差し戻された控訴審で死刑判決が下された直後、Fが驚きの変貌を遂げたのだ。本書エピローグのFの姿こそ、死刑判決に直面して初めて抱くに至った深い悔悟にほかならない。
死刑判決で、自分の死が現実とならなければ、真の反省はできないのか。それはFだけなのか。その点について、私たちはもう一冊の本、祝康成氏の『19歳の結末 一家4人惨殺事件』(新潮社)を読み、考えるための参考にすることができるだろう。
それにしても、門田氏の文章は、手練の剣士の切っ先から放たれる閃光のようだ。短い文章が強い印象を刻みつけながら、素早く展開する。スピードは最後まで緩まない。テーマの重さ、深刻さにもかかわらず、読後に残るのは、本村氏をはじめとするじつに立派な日本人の群像だった。